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映画『メッセージ』で印象に残った言葉 [映画分析]

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自分の利益だけで行動すると全体がうまくゆかなくなる。ゆえに、一人一人が他者のことも考えて行動した方が全体もよくなるという考え方。



『スウィート17モンスター』──渋いおとなの男の映画でもある(笑)(★★★★) [映画レビュー]

 『スウィート17モンスター』( ケリー・フレモン・クレイグ監督、2016年、原題『THE EDGE OF SEVENTEEN』)



『トゥルー・グリット』のヘイリー・スタインフェルドはもう20歳の「おとな」。それがちょっと「幼い」役を演じる。『トゥルー・グリット』では、14歳にしてアカデミー賞ノミネートで注目を浴び、「ファッションにすごく興味がある」と言っていたのが印象的で、本作でも、まさに「ぴったり」の、背伸びしすぎないカジュアル(とくにスニーカー!)ファッションが健康的で品がある。肌の露出は、一般的な同年ティーンエージャー、アメリカ娘と比較するに、かなり少ないと思われる。変人こじれ娘の唯一の親友は、顔もスタイルも、ヒロインより「ちょい落ち」はお約束か(笑)? スタインフェルドの方が、背は高いし、スタイルもよく、だんぜんかわいいのであるが、この「凡庸な風貌」の親友が、ヒロインの、イケメン+人柄よしの兄と恋に落ちる。途中、アジア系の同級生男子が出てくるが、大金持ちの子息らしいこの男子もさることながら、ヒロイン、ネイディーンの家にも「プールぐらいはある」。パパは死んでも、中流維持。そんな恵まれた環境での「こじらせ」青春である。こんな幸せな青春が送れる少女たちが、いまのアメリカにいったい何%ぐらいいるのか? それでも、「等身大」のこうしたドラマは人々を癒す。


 しかし、注目は、ママ役の、キーラ・セジウィックである。ケビン・ベーコン(べつに変態ではなく(笑)、素は知的な雰囲気のようです)夫人のこの女優、テレビ・シリーズの『クローザー』で人気。私もAmazonでDVDを買って観た。FBIの凄腕捜査官の淑女が甘い物フェチで、事件解決後、毎回、オフィスの机の引き出しから甘いチョコバーなどを取りだし、一口かじり、「あ~、あ~、うっふ~ん」ともだえる。この意外性がハマる(笑)。ジュリア・ロバーツにもちょい似た風貌。そういうママである。


 そして、きわめつけの先生。ネイディーンの高校の担任の教師。よくあるぼんやり禿げの中年男。しかし、これをウディ・ハレルソンがやるとなると、思わず膝を乗り出す。思えば、スタインフェルドに対抗できるのは、彼だけ。しかも、高校教師という、「最も似合わない」(爆)役。

勝手にハジけて傷ついたネイディーンが、最後の頼みの綱として連絡した教師。ドーナツショップの椅子に座って待つネイディーンを迎えにいく。店を出がけに、「ドーナツは買ったか?」。「ううん」と首を横に振るネイディーン。なにも買わずに店で待っていたのである。教師は「しゃーないな」という顔を一瞬して、ショップのレジ近くに置いてある「寄付の瓶」にお札を突っ込んでから出ていく。いや~おとな! おとなはこうあるべき。そんなハレルソンをもっと見ていたい!ティーンの映画ながら、渋いおとなの男の映画でもある(笑)。


『メッセージ』──ソシュールもびっくり(笑)(★★★★★) [映画レビュー]

『メッセージ』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、2016年、原題『ARRIVAL』)

 

 地球外から「宇宙人」が来た場合、スピルバーグの『未知との遭遇』までは、ひたすら「侵略者」で、いかに戦うかが問題であった。しかし、スピルバーグが、「宇宙人」は、地球人から見たら「異形」なれど、友好の気持ちがあり、コミュニケート可能であることを示した。さらに驚いたことに、過去に死亡したと思われた人々がおおぜい、宇宙船からぞろぞろと戻って来た──。本作は、これとほぼ同一の「物語」を当てている。「未知との遭遇」の場合のコミュニケート手段は、「音階」であった。しかし本作は、そう簡単にはいかず、一流言語学者が、軍から呼び出される。この言語学者を、大きな眼差しが「口ほどにものをいう」、やさしいイメージのエイミー・アダムスが演じている。

 この学者が、実に、ソシュール然とした知性と論理と技術を持っていて、それを駆使して、「未確認飛来生物」とコンタクトするのである。この「未確認飛来生物」の、乗り物(『未知との遭遇』では、すばらしく美しい円盤であったが)、姿、言語の表現方法が、まったくのオリジナルで度肝を抜く。

 そして、やはり『未知との遭遇』のように、身近な死者とも関係していることをほのめかす。そして、なんとなく、時間のとらえ方や映像が、タルコフスキー『惑星ソラリス』も彷彿とさせる。おそらくは、それら、SFの名作へのオマージュでもあるのだろう。

 

 さて、本作の監督、ドゥニ・ヴィルヌーブといえば、『プリズナー』から始まって、『複製された男』、『ボーダーライン』と、たて続けに、意欲作を発表し、それらはすべて観て、いちいちウナらされてきたが、本作はその頂点にあるように思われる。ゆえに、次回作『ブレードランナー2049』も、期待される。しかし、その予告篇を観たかぎりでは、本作の方がすぐれているようにも思われる。なんせ、オリジナル『ブレードランナー』に頼りすぎているような気もするからだ。



宇佐美ゆくえ著『夷隅川』──基礎を踏まえた端正な歌集(★★★★★) [Book]

 『夷隅川』(宇佐美ゆくえ著、 2015年5月、「港の人」刊)



  Facebook友の、お母さまの歌集で、初版は、2015年5月15日、それからほどなくして著者は亡くなられたと聞く。もとよりなんの知識もなく本歌集を読み進むと、新婚時代から子を経て、子供たちが独立し、やがて孫もかなり成長した姿で登場し、一人暮らしに戻り、ケアバスを待つ日々の、心の軌跡のようなものが書きつづられている。きょうびの若い歌人だと、もっとハデな歌が多く、本歌集などは地味のなかに沈んでいくか、見過ごされるようだ。だが、斎藤茂吉は、次のように書いている。



 「檐から短い氷柱が一列に並んでさがつてゐる。それから白い光が滴つゐる。それを一首の短歌にしようと思つた時、ふいと比喩にするいふ思が浮んで、『鬼の子の角ほどの垂氷(たるひ)』と云つた。段々読み返して見るとどうも厭味である。それは鬼の子では余り目立ち過ぎてはいけないのだと思つた。それならば、『山羊の子の角の垂氷一並び』かと思つたが、どうも落付かない。『めす犬の乳首のやう』とも思つたが、どうもいけない。とどのつまり、『ひさしより短か垂氷の一並』といふ平凡な写生にして仕舞つた。比喩の句法で晶子女史は名手であるが、短歌に比喩の句法を用ゐるといふ事は余ほど大きな力を持つ作者でなければ駄目だと思つた。奇抜な比喩などは存外楽なものであるが、短歌では奇抜なほど厭味に陥るやうである。『ごとく』とか『なす』とか『の』の連続とせしめないで、一首を貫いて象徴にまで進むのである」(「童馬漫語」55写生『斎藤茂基地歌論集』岩波文庫、所収)



 そう思えば、ちまたに溢れるいかにも新しき衣装、意匠をまとった歌など、厭味のオンパレードである。



 この歌集の題名を見たとき、すぐに、音の連想から、



     みかの原わきてながるるいづみ川いつ見きとてか恋しかるらむ



 という、百人一首で同じの歌を思い浮かべた。いかにも女性らしい歌であるが、作者は、中納言兼輔である(新古今集所収)。



 本歌集の著者、宇佐美ゆくえにも、そういう心の輝きがあり、それらが収められているのが本歌集である。こんにち、多くの自称、多少「歌人」たちが忘れている基礎がここにある。



     揚水の早や始まりて暁の野を光りつつ水の走れり



 美しいリズムと朝の光が重なって、生きる喜びがそこにある。



     職場への道急ぎつつふりかえる風邪の子ひとり残るわが家を



 一瞬の思いを文字に留めている鮮やかさ。



  雷鳴におびえる園児抱きつつ遠き日の吾子をおもい出しぬ。



 ここには、他人の子と自分の子と、時間差の違う、子供への愛が隔てなくうかがわれる。これを比喩にはできないだろう。



  霜白く勤めに急ぐこの堤きょうも一羽に白鷺にあう



  乙女らは幻のごとく声あげて雪降りいでし橋渡りゆく



 これらは写生の美しさのよく表現された初期作品である。晩年になると、写生ばかりもしていられず、「心理」が介入してくる。それは、時代の変化でもあるだろうし、そういう時代に老年を迎えた者の宿命であるかもしれない。



 飛び跳ねて、これが歌と思い込んでいる自称歌人の方々がは、本歌集を読んで、勉強してほしいと思う。



 



夷隅川

夷隅川

  • 作者: 宇佐美 ゆくえ
  • 出版社/メーカー: 港の人
  • 発売日: 2015/05/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)




 


10年前のケイシー・アフレック [映画レビュー]

10年前に初めて、ケイシー・アフレックを見て、すごいと思った。その記録があった。彼は、その後も、いろいろ注目されながら、「やっと」、大輪の花を咲かせた。ブレない男。

 

*****

Yahoo! 映画より。

 

『ジェシー・ジェームズの暗殺』 (2007)

THE ASSASSINATION OF JESSE JAMES BY THE COWARD ROBERT FORD

監督アンドリュー・ドミニク

 

「ケイシー・アフレックがブラピを食っていた」(★★★★)

山下晴代 さん 2008年1月17日 3時37分 

 

原題は、『臆病ロバート・フォードによるジェシー・ジェームズの暗殺』……なにやら演劇のような題である。もしかしたら、舞台劇であったものかもしれない。

 19世紀アメリカに実在した「人気者の悪党」と、彼を暗殺した手下の、「歴史的な」できごとを、一巻の映画にしたてた。荒涼とした土地で演じられる、冷えた心理劇……。大味で脳天気なアメリカ映画が多いが、たまにはこうした、ていねいな作りの作品もいいだろう。作り手側の心意気はわかる。しかし、惜しむらくは、名作とはいいきれない欠点がいくつかある。

 1、主役の悪党=ブラピが全然魅力的に見えない。

 2、芸術への色気か、作品が長すぎる。

 3、内容を言葉で説明しすぎている。

 

 以上のような欠点はあるが、導入部の、荒涼とした土地に夜汽車が入ってくるシーンはとても美しいことと、「助演」のケイシー・アフレック(ベン・アフレックの弟)が魅力的であることが本作を星三つ域から脱出させている。

 とくにケイシー・アフレックは、本来なら、主役の悪党を暗殺する卑劣な男なのだろうが、困ったことに彼の方が魅力的なのである(笑)。ま〜、ブラピは、トシのせいか(44才だが、34才を演じていた)、アフレック(32才だが、19才を演じていた!)に完全に食われてましたね。アフレックの、バカを装った純な男の複雑さを表現する「視線」の演技は、見るに価する。よって、「妥協の」星四つ!

 

 あ、でも、やはり、「腐ってもブラピ」ということはある。全然魅力的に見えないとはいえ、やはりこの役はブラピが演じたからこそ、荒涼とした土地に観客の視線を集めえたとも言える。

 だからまあ、「妥当の」星四つか。


 


『マンチェスター・バイ・ザ・シー』──稀有な俳優、ケイシー・アフレック (★★★★★) [映画レビュー]

『マンチェスター・バイ・シー』(ケネス・ロナーガン監督、2016年、原題『MANCHESTER BY THE SEA』)

 

 予告編で、急死した兄の遺言を預かっている弁護士が、甥の後見人を兄に指名された内容を言ったあと、躊躇を見せている主人公のケイシー・アフレックをなだめ、「あんたの経験は想像を絶する」(からしかたないんだ、そういう態度になるのも)と言う。その場面はかなり短かったが、「想像を絶する」という経験がいったいなんなのか、どきどきした。

 強盗に襲われて一家を惨殺されたとか……。しかし、物語はそういうものものしさは選ばず、確かに酷い出来事ではあるが、ある意味静かな事件であった。主人公の落ち度のため、幼子3人を寝かした2階の部屋の暖炉の火が飛んで(それを防ぐために、普通はカバーのようなものをするらしいが、主人公はそれを忘れて買い物に出た。それは自分が飲むためのビールであり、すでに彼は非常に酔っていたというのは、おおぜいの友だちを返したあとだったから)、家が全焼、1階に寝ていた病気だった妻は、かろうじて外へ脱出。「なかに子どもがいるのよー!」と叫んでも、あえて火の海に彼女を放つ消防士はいない。そこへケイシーが帰って来る。酔いもぶっ飛び、呆然。しかし、なぜか、買い物のレジ袋だけは握りしめたままだ。そういう時はそういうものだ。映画は、そんなディテールを静かに重ねていく──。

 はじめ、事件を知らなくて見ているわけだが、男は兄と船遊びをして家に帰ってくると、妻は病気でベッドで雑誌を読んでいて、彼は次々子どもに挨拶をしていく、一人の女の子、もう一人の女の子、そしてまだ赤ん坊で、ベッドで寝ている男の子と、子だくさんだなーという印象。とりたてて文学シュミがあるとか、インテリというわけでもない、どちかといえば、肉体的な男。そんな男が、三児を一度に無残なしかたで失い、心が壊れる。当然、妻も心が壊れ、二人は別れる──。

 はじめに戻れば、持病の心臓病を持っていた兄の死は、主人公の「想像を絶する」経験を引き出すための伏線のようなものである。彼が後見人となる、父を失った甥も、遠景へと退いていく。ケイシー・アフレックは全身で、ある男がいかに傷ついたかだけを演じる。とくに彼の肩と、目つき。ケイシー・アフレックから厳しい菜食主義者、Vegan(ヴィーガン)という言葉を知った。彼は幼いとき動物を虐待したくないと決心してヴィーガンになったという。その筋金入りのまなざしが、兄のベンとはまったく違う色合いを帯びる。稀有という言葉は、彼のためにこそある。俳優とは、まったく地味な職業である。



【詩】「空蝉」 [詩]

「空蝉」

 

はにおくつゆのこがくれて、

歌ひとつつくれぬ女ゆゑ

せめて伊勢よりひきて残す。

式部はなにを思つたか、

若き後妻のされかうべの

空蝉よりかろきに、

つれなきひとに見せかけて

おん手習取出たり。

ものはづかしきここちして、

この巻の発端は別に端を

起こさずして前章よりひきつぐは、

これまたひとつの技法なり。

十七の夏を映す鏡の、

なを人がらのなつかしきかな。




熊野純彦著『マルクス資本論の思考』──反唯物論的感傷解釈(★★) [Book]

 

『マルクス資本論の思考』(熊野純彦著、  2013年9月、セリか書房刊)

 

この著者のエクリチュールの特徴は、なんでもセンチメンタルにしてしまう。それと、ニュートラルな文章では当然漢字を当てるところを、ひらがなで開いてしまう、どうもそこが、ガラスの表面を金属でキーキー引っ掻いているような気持ち悪さがある。

 

 目次を見ると、ほぼマルクスの『資本論』のままである。そのいちいちを、センチメンタルな解釈を添えているだけである。しかし、ここまですべてやり遂げたことには、ある種の敬意を表する、それだけである。著者の言う、「今の世界はマルクス化している」の意味がわからない。ちなみに、中国共産党幹部の多くは、マルクスの『資本論』はまったく読んでないそうである(笑)。

 

『資本論』のような、徹底して唯物論的なテクストには、どんな「解釈」=「切り口」も可能である。ゆえに、著者が「十代のすえから三十代のはじめにかけ」て、参加していた、読書会のリーダーだった、廣松渉的な読みも、アルチュセール的な読みも、また、ミシェル・ヘンリー的な読みも可能であろう。カントやベルクソンの訳書もある著者のことであるから、当然原書で読んだのであろう。

 

 私も本書のレビューを書くにあたり、十年ほど前に読んだ、『資本論』(筑摩書房の「マルクスコレクション」シリーズⅣ、Ⅴ)を再読してみると、「凡例」からして重要なことがわかった。曰く、

 

 「「剰余価値」、「剰余労働」の「剰余」という表現は、厳密には問題的な訳語であるが、これはすでに人口に膾炙し、ほとんど日本語に固定しているので、変更しないでそのまま採用した。云々」

 

 「剰余」のドイツ語は、Mehrwert(s) で、mehr は、「より多くの」、(der)Wert は、「価値」である。

 

 また、永山則夫を引き合いに出し、彼が『資本論』を手にした時に最初に目にしたであろう章を勝手に推測しているが、これも、「第一の序文」を飛び越して、本文に入っているが、「第一の序文」には、以下のような文章がある。

 

 「なにごとも最初がむずかしい、という諺はすべての科学にあてはまる。したがってここでも第一章、すなわち商品分析を含む箇所が理解するのに一番骨が折れるだろう」(鈴木直訳)

 

 Aller Anfang ist schwer, gilt in jeder Wissenschaft. Das Verständnis des ersten Kapitels, namentlich des Abschnitts, der die Analyse der Ware enthält, wird daher die meiste Schwierigkeit machen.

 

 (「科学」という部分は、「学問」の方が一般的だと思うが)

 

 なるほどそのとおり、『資本論』は、終わりにいくほど「簡単に」なっている。「神は細部に宿りたもう」ように、『資本論』においても、「序文」と「原注」に、多くの「情報」がある。「情報社会」の21世紀こそ、それらを検討する「価値」があるように思う。しかし、本著者は、本文を「意味内容」に変換し、自身の「おセンチな思考」の表現を与えているのみである。

 

 こんな「解説本」?を読むくらいなら、直接『資本論』を読むことをオススメします。とにかく、熊野純彦という学者センセイは、岩波文庫のベルクソン訳でもそうですが、ただでさえ難しい原著を、より「(おそらくはそのセンチメンタルな解釈によって)わかりづらくしてしまうクセ」があるので、要注意です。

 

****

 

(少なくとも)P37と、P51に、誤植あり。

 




千葉雅也著『勉強の哲学 来たるべきバカのために』──「おフランスの現代思想」じたいがすでに陳腐(★) [Book]

『勉強の哲学 来たるべきバカのために』(千葉雅也著、2017年4月、文藝春秋刊)

 

 この著者は、ちまたに氾濫する、いわゆる「勉強指南書」はひとつも読んだことがないのだろう。だから、「すでにそういうことは何人もの人が言っている」的な、重複がかなり見られ、しかも、「切り口」も、陳腐である。

 

 文藝春秋が出した、「文句のない学歴」かつ「人気」(前者のおかげもある)に目をつけた、「かなり遅れた」「勉強本」のひとつと見た。

 

 二十年ほど前から勉強本を出し続けてきた齋藤孝がかつて書いていたが、「高学歴で自身は勉強している著者による、若者よ、勉強などするな」という本を見かけると、はらわたが煮えくりかえると。本書は、決して「若者よ勉強などするな」とは言ってないし、むしろ勧めているのだが、それが、なんせほら(笑)、専門の「おフランス現代思想」的ディスクールだかなんだか、そういう「色眼鏡」にまぶされているので、決してやさしくない内容を、「やさしそう」に「書き直して」いるので、二重に難解になっている。簡単に言えば、「若者よ! 勉強するには覚悟がいるゾ!」と脅しているので、勉強への敷居をさらに高くする結果となって、著者のような「エリート」がさらに優位になる仕組みになっている。前著『動いてはいけない』とまっく同じ、反動本である。むしろ、われわれおとなは、どうして、このような、「一見若者の味方風の」反動者が出現し、かつ出版界でもよいポジションを取り(反動ゆえにかもしれないが)、本人は稼いでいるという事態になったのかを考えるべきだろう。

 

 こんな本を読むくらいなら、ベルクソン『物質と記憶』、フロイト『夢判断』を一冊「アゲた」方がよほど血肉になる。というのも、「おフランスの現代思想」は、だいたいにおいて、この二者対して、どいうスタンスを取るか、いかに読むかについて書かれているからだ。

 

 普通の勉強本なら、やはり佐藤優のものが実質的だと思う。





『カフェ・ソサエティ』──おもろうてやがて眠たきアレンかな(★★★★★) [映画レビュー]

『カフェ・ソサエティ』(ウディ・アレン監督、2016年、原題『CAFE SOCIETY』)

 

 ハリウッドでプロデューサーとして成功した叔父を、怪優、スティーヴ・カレルが、またして「なりきり」であるが、これがどうみても、ドリフターズの荒井注にしか見えず、しかも、本作ヒロイン、猫目のクリステン・スチュワートが猫にしか見えず、お相手、世間知らずのボビー、ジェシー・アインゼンバーグが、やはりネズミに見えてしまって──(笑)。

 確かに世界はユダヤ人によって作られている、よいも悪いもユダヤ人。そこをいつも通り、皮肉かつ冷静に見つめるウッディ・アレンの反骨精神は衰えず。

 一家なんだけど、それぞれがマチマチというところがおもしろい。まずボビーなる世間知らずの青年がいて、その母親が皮肉屋で、いつも夫のことは馬鹿よばわり、ハリウッドで成功しているとかいう弟のところへ電話をかける。「ローズだけど」「ローズ?」「あんたの姉の」「ああ。ここの番号どこで知った?」「メイドから聞いたのよ。息子のボビーが訪ねていくのでなんか仕事を紹介してあげて」

 ボビーは三人兄弟で、姉と兄がいて、兄はなんとギャングなんだが、家族は実業家と思っている。姉だけが事情を知っているような気配。隣人がラジオの音を大きくしていて、姉の夫(共産主義者のインテリ)が注意したら、逆ギレして「おまえんちの犬を撃ってやる!」姉は頭痛がしてギャングの弟に「注意して」と相談する。弟は、「いつもやってるように」、その隣人を殺してコンクリート詰めにしてしまう。

 一方、末っ子のボビーは、叔父に身の回りの雑用係としての仕事を与えられ、美人秘書のヴェロニカ、通称ヴォニーに一目惚れ。実はヴォニーは叔父の愛人で……は、よくある話。「いろいろあったが」、やっぱりヴォニーは、妻と別れた叔父と結婚し、ボニーはニューヨークへ帰るも、兄と「カフェ・ソサエティ」を共同経営する。兄は悪事が発覚し、死刑になる。しかし、一家は、兄の葬式をすませても平然としている。そこから何も話は発展しない。

 要するに、ボビーだけが、出世(兄のカフェを継ぐ)して、金持ちになり、もうひとりのヴェロニカ、ブレイク・ライブリー扮する美女と結婚して子供ももうけるが、再会した「前のヴェロニカ」が忘れられず、秘密の逢瀬。「二人のヴェロニカ」でも、第二のヴェロニカのライブリーはやや役不足。なんのことはない、ボビーと第一のヴェロニカの恋が色濃く全面に出て、あっという間に終わる。お互いを思いつつふっと遠い目のヴェロニカとボビーを交互に映し、寝落ちした瞬間(爆)、「いけねっ」と思って目を開けたら、エンドクレジットが流れていた──(爆)。

 どーなんですか? これ。前半はなかなか皮肉が効いておもしろかったけど、後半、ただの「ラ・ラ・ランド」になっていて……(笑)。「老体でもすごい」のか「やっぱり老体」なのか。しかし、あの黄色のレポート用紙に、ベッドに腰かけて、さらさらと脚本を書いてしまう様子を浮かべると、やはり私淑のアレンだった(笑)。クリステンがシャネルのCMに起用されているので、衣装提供はシャネルでした。私も以前、つられて、マスカラとライナーを買ってしまいました(ほとんど使ってないんですが(笑))。

 


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