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『真夜中のゆりかご』──「本格」ベースの父性愛の物語(★★★★★) [映画レビュー]

『真夜中のゆりかご』(スサンネ・ビア監督、2014年、原題『EN CHANCE TIL/A SECOND CHANCE』


 


 ヤク中+DVカップルのアパートに刑事が踏む込みと、トイレ(といってもあちらは洗面所でもある)に排便まみれの赤ん坊が──。一方、刑事にも同じ年頃の赤ん坊がいる。ある種の虐待として赤ん坊は保護されるが、母親にクスリ歴がないことで不問にされる。


 刑事の家の赤ん坊が死ぬ。乳児の突然死であることを観客はなんとなく想像する。その前に、刑事の妻は、導入部から、ちょっとしたことで激昂することが示される。イヤな女だなとはじめから思う。赤ん坊は何度も夜泣きし、そのたび、夫婦のどちらかが散歩に連れ出す。赤ん坊が死んでいることを知った夜、刑事は警察に連絡しようとするが、妻は拒み、通報したら自殺するとまた激昂する。問題はこのあたりである。この妻の激昂の度合いによって、刑事の心理が決まってくる。また、この激昂は、赤ん坊の死因の発見を遅らせるためだったかもしれない。刑事は、悩み果て、死んだ赤ん坊を車に乗せて真夜中の街へ出るが、最初から、あのヤク中カップルの子どもと取り替えるつもりではなかった。相談しようとした相棒が、酒に酔って電話に出なかったというのもある。ちょっとした偶然が重なり、思わぬ方へ刑事を導く──。


 DVカップルのアパートへ行くと、ふたりは熟睡して(鍵はかけてなかったのか?)いて、トイレには便まみれの赤ん坊がいた。それを、死んだわが子と取り替える。どうせわが子は死んでいる。この子だけでもまともに生かせてやりたい。子どもはみな同じだ。という博愛の考えがないとも言えない。一方、いくら死んだとはいえ、わが子をわざと便をつけて置いていく、という考えはひどすぎるというのもある。ここは辛いところだが、論理的に考えれば、生きている方を取った方がよいし、便をまみれさせるのは、慚愧に堪えないながら、その家の子に見せかけるためだ。究極の状況に追い込まれた場合、このような判断もあり得る。


 風采のあがらない初老とも見える同僚が、堕ちていく若い刑事の不安定な真理に接して、逆に立ち直って、彼をまっとうな方向へ導いていく。そして、刑事の赤ん坊(DV夫に土中に遺棄されていた)は、「やはり」(?)妻が殺していたことが検死でわかる。泣き止まないので、大きく揺すったのだろう。さもありなんの当初から激昂ぶりだった。一方、DV妻は、最初から、取り替えられた死体の赤ん坊は自分の子ではないと主張していた。同僚に諭され、刑事は、生きている赤ん坊を連れて、その女(精神病院に強制入院させられていた)に謝罪にいく。


 数年後、刑事は職を失いホームセンターで働いている。そこへ見たことのある女性客が通り過ぎていく。「オジサン、迷子なの?」子どもが呼びかける。元刑事はその子の名前を問う。その子は、かつて、自分が盗んだ赤ん坊の名前を言う。


 原題(といってもデンマーク語は読めないから英語題名だが)「second chance」。「再生」とでも訳せばよいか。だから、これは、父性愛という稀有なテーマの物語であったのだ。

 


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