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フロイト入門 [哲学]

フロイトの経歴(が、彼の理論のもとになっているのではないか、と言われているが。つまり、現チェコのフライブルクなる街で、生粋のユダヤ人(父41歳再婚、母21歳)の間に生まれ、父には先妻との間の兄弟がおり、その長兄も二人の子どもがおり、甥はフロイトより一歳上、姪は同い年)、近所に住まい、ほかに兄弟姉妹が6人くらいおり、などなどの煩雑な家族。そして住処を追われ、ウィーンに移住、その時、列車の中から見たランプが、人魂のように思われ、そのノイローゼから脱するのに長い自己分析の期間を費やした)を読みながら、コタツでうたた寝していたら、自分も同じような「症状」にとらわれた。──というのは、ある人にとても会いたくなったのだが、たぶん、その人は死んでいてもう会うことはできない。それがどうしようもなくさびしい。これは事実なのだが、ふだんはそういうことを意識はしない。しかし、べつにその人が夢に現れてどうこう言ったというわけでもない。ただ、夢の中で、私はその人への手紙を書いていた──。あ、そうか、もういないのだった、と、醒めていく「意識」のなかで考えた。この「意識」が、いたたまれないほどさびしいのだ。いけない、いけない、と思い、「気を取り直し」(意識的にこれをすることが重要)、べつの本を読みながら、正式に寝ることにする。


 


これなら、すぐに、やすらかに寝てしまうだろう(笑)。

 

 

 


 


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英訳版『失われた時を求めて』 [文学]

 


  吉田健一が、訳詩集『葡萄酒の色』(岩波文庫)の「付録」の「翻訳論」で次のように言っている。

 

「翻訳は一種の批評である」

 

「翻訳に就て確かに言えることの一つは、我々が原作に何かの形で動かされたのでなければ、碌な仕事が出来ないということである」

 

「原文の所謂意味を取るだけでは原文を理解したことにならない」

 

「われわれが或る作品を愛読するのでない限り、その作品は存在しないのだ」

 

「我々が無理をしてでも何でも、その作品の中に入って行けたと思えなければならないので、そこから翻訳すること自体の問題が始まる」

 

 つまり、吉田の翻訳観は、「対象の再現」である。だから、現実の花に魅了されてそれを絵に描けば、それは「自分なりの翻訳」となる。

 

 *****

 

「スコット・モンクリイフの『失われた時を求めて』の英訳は、原作より優れていると言われている」

 

 『失われた時を求めて』のフランス語の原作は、アンドレ・ドゥサルディエの朗読のCDをiPodに入れて、犬の散歩の時に、もう何年も聴いているから、最初の部分は暗記している。

 

「原作よりすぐれている」と言われる、モンクリィーフの英訳はどういったものか、入手して読み始めている。これは、いかなる事態か? モンクリィーフが、プルーストの原文に感動し、彼になりかわって、ぐじゃぐじゃ、不明瞭な原文を、「ほんとうのあるべき姿」に整理してしまったようである(笑)。

 

 モンクリィーフは、半生をその翻訳に費やして、最後の一巻を残して死んでしまったので、別の人間が引き継いで完成した。

 

 とかく、われわれは、「原文に忠実」なのを、翻訳の理想と考えたりするが、異なった言語間では、それは幻想であろう。

 

 モンクリィーフの『In search of lost time』(『失われた時の探求』)は、プルーストががぜん輝いてくるのである。

 

 もっと穿って言えば、ロラン・バルトなどが、小説というよりも、聖書のような文章だと感じた、「聖なる曖昧模糊」を、確かに「小説」にしたのは、あるいは、モンクリィーフかもしれない。

 

 


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『レヴェナント:蘇えりし者』──ついでに「日本アカデミー賞」もあげたら?(★) [映画レビュー]

『レヴェナント:蘇えりし者 』(アレハンドロ・G・イニャリトゥ監督、2015年、原題『THE REVENANT』)


 


 予告編でも、退屈そうだな〜と思ったが、その予想をまったく裏切らない退屈さ。最後のクレジットで、「No animals are harmed」の一文を探したが、もしかして見落とした? もしかして、あの馬はほんとうに崖から突き落とされたのかしらん? 腹の切り口も、妙にリアルだった──。


 


 ディカプリオは、「デビュー作」(?)の重度知的障害の少年が最高で、それ以上の演技はしていないが、ま、このへんでアカデミー賞をあげようということになったのだろうか、この映画の演技は、なんとなく「重労働そう」だし(笑)。


 


 このあまりに単調なドラマの美点として、多くのレビュアーが評価している、「雄大な大自然」ですけどね、このテードの自然なら、リース・ウィザースプーンが、『私に会うまでの1600キロ』で歩いた、アメリカ大陸縦断の、「パシフィック・クレスト・トレイル」にもありましたけどね。とくに開拓時代のようなところは感じられなかった。イニャリトウだかなんだか、映画音痴としか思えない。何が楽しくて映画を撮っているのやら? こういう映画を、与えられた資料を見ながら、大袈裟な言葉で褒めなければならない映画.comの批評家氏にご同情申し上げます。「や〜、よく寝た!」って、言ってるみるのもいいもんですよ(笑)。


 


 題名、「The Revenant」であるが、「蘇りし者」と言い換えられているが、これは、亡霊のこと。もしかして、一度は死んだと思われて蘇り、息子の仇を追う(もっと執拗さが描かれているのかと思ったら、意外に早く「対決」になってしまってあっけにとられた(笑))グラスことディカプリオのことではなく、なにかと彼を導く、ネイティブ・アメリカンの妻の「亡霊」のことではあるまいか?


 


 「自然光のみで撮った」と宣伝していたが、こういうところに、人口照明は、野球場のナイターなみの設備がいるのでは(笑)?


 


 坂本龍一の音楽も凡庸であったが、なかで、時代劇を思わせる部分があった。で、池波正太郎の仇討ちなどを思い出したが、ああいう潔い美学もまったく感じられなかったので、やっぱり、ただただ大袈裟な作品が作りたかっただけなのだろう。どーでもいいが、アメリカのアカデミー賞も、なんか日本のアカデミー賞みたいになってきたな(笑)。


 


 長尺って? はあ、適当に睡眠を取っていたので、それほど長くは感じられませんでした。気がついたら、仇役の、トム・ハーディー(あまりに紋切り型な配役)と闘ってました(爆)。

 

 



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『スポットライト 世紀のスクープ』──絶滅に近い「記者魂」を描く(★★★★★) [映画レビュー]

『スポットライト 世紀のスクープ』(トム・マッカーシー監督、2015、原題『SPOTLIGHT』


 


 アメリカには、日本のような、「全国紙」はない。「ニューヨーク・タイムズ」も、「ワシントン・ポスト」も地方紙である。アメリカのような国土も広大なら国民もいろいろな国には全国紙は意味はないだろう。そして、本作の「ボストン・グローブ」である。ここには、記事の内容に口を出す「社主」も「スポンサー」も登場しない。一定数の読者を獲得しているある地域の新聞は、記者魂を貫こうとすればできる。その見本のようにも思われる。私も、まだ大学を卒業する前の2月から地方紙の記者として働いていた。しかし、たいてい、こういった理想からはほど遠い。それに時代もちがう。今の日本では、地方紙は、国際的ニュースは、通信社から買い、「全国紙」のまねをし、広告主に迎合する。権力者に逆らうことは不可能であろうと思われる。


 マイケル・キートンには、記者がよく似合う。「バードマン」のような、元ヒーローは彼の本質には合っていない。かつて、『ザ・ペーパー』(1994年、ロン・ハワード監督)で、二流紙の記者を好演したのが非常に印象的で、今もってときどき思い出す。この時は、女性上司のグレン・クロースにしごき抜かれる。一流紙への転身を図ろうと、面接に行ったキートンが、一流紙の担当者から「おたくは軽い新聞だから」と言われてキれ、記者魂に目覚める──。二流紙の意地を見せる。あれから20年経っても、彼は同じような記者魂を見せ、しかもそれは成熟している。


 むくつけき異人役の多い、リーブ・シュレイバーも、知的な編集局長が本来の人柄のように思えてくる。この編集局長の意志がなければ、世紀のスクープはなかった。「スポットライト」というコラムで、数回取り上げられた神父のスキャンダルに目をつけ、それを発展させようとしたのだから。しかも時は、あの「9.11」が起こった時である。世間の目は当然、そちらの方へ向く。


 そして、組織的とも言える、カトリック教会内部の犯罪とその隠匿。これは、私も、カトリックの神父を取材した(個人的ではあるが)ことでもわかるが、まず、カトリックの神父は、妻帯が許されるプロテスタントの牧師と違って、司祭に除せられる際に、「生涯独身の誓い」をしなければならない。およそ、女性との交渉以外の「楽しみ」はなんでも許される面もあり、私が接した神父も、ヘビースモーカーの大酒飲みだった。そして、バチカンを頂点とする権力構造も、このような事件を起こしうる要因となっているかもしれない。


 とにかく『悪魔と天使』や『告発の行方』のような、「カトリックものミステリー」にすることなく、ただただ記者の働きだけを追っていくストーリー展開には、すがすがしいものがある。そして、記者の求めるもの=具体性を常に明確にしている。マーク・ラファロの「けれん味」のない演技も、チームの一員という感じをよく出している。


 Facebookのニュースラインに流れてくる、世界各紙のニュースを見ていると、いま、こんな感じに近いと、私が感じるのは、イギリスの「ガーディアン」紙である。しかし、残念ながら、こういう記者魂は、もうほとんど絶滅に近いのが事実ではないだろうか。その点でも、本作は貴重なのである。

 

 

 


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『ボーダーライン』──オール・ユー・ニード・イズ・キル(★★★★★) [映画]

『ボーダーライン』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、 2015年、原題『SICARIO』)


 


『オール・ユー・ニード・イズ・キル』で、トム・クルーズをしごき抜いた「上官」を演じたエミリー・ブラントである。重いライフルの扱いは慣れているし、根性もすわっている。そういう信頼感がこの配役にはあるだろう。


 アメリカとメキシコの国境(ボーダー)は長く、カリフォルニア州、アリゾナ州、ニューメキシコ州、テキサス州などが接している。舞台はとりわけ辺鄙な山地の寒村が多い、アリゾナ州との国境で、ここに麻薬ルートの「トンネル」が作られているという。アメリカ側は、ここを叩くことによって、ルートの壊滅を図ろうとしている──というのは、「粗々」表向きのスジだ。邦題がこれに一役買っている。原題は『SICARIO』(暗殺者)で、作中でも、(エチュモロジックに)語られ、伏線といえば、伏線の一部になっている。


 まず、エミリー・ブラントであるが、これは、FBIの捜査官なれど、「誘拐人質救出担当」で、麻薬関係者が誘拐している人間を助けに、特殊部隊(SWAT)を引き連れて「敵地」の建物を急襲する。首尾は上々のはずが……。とんだものを見つけてしまった──。それは、壁に隠された、何十体もの「(拷問済み)惨殺死体」である。その「惨殺死体」のIDは? 村の住民か、移民か? すぐにはわからない──。


 「ボーダー」というと、すぐに、アメリカ/メキシコ国境を思わせるのは、30年ほど前、ジャック・ニコルソンが、国境警備隊員を演じた『ボーダー』がいつまでも映画人の記憶にあるからだろう。つづいて、ベニチオ・デル・トロが、やはり保安官を演じた『トラフィック』で、アカデミー助演賞を取った(『エスコバル』では、ついに、「麻薬王」そのものも演じているが(笑)、未見である)。


 さらに『皆殺しの天使』では麻薬カルテルのボスたちの「のりのり」ぶりと、地元の地道な警官のやるせなさが、ほとんどドキュメンタリー「チック」に描かれていた。


 そういう「下地」あっての本作であるが、本作は、その表面ほど「社会派」の映画ではない。本作は、非常に伏線のよく効いたミステリーになっている。


 キーパーソンは、コロンビア側の検察官だった、ベニチオ・デル・トロ。彼は麻薬マフィアに妻子を惨殺され復讐心を持っている。


 そして、アメリカという国である。実に多くの「情報機関」を持っている。CIAは大統領の直属であるが、司法省や国防省下の「情報機関」もある。彼らは互いに「縄張り」があるが、今回、よくあるように、連邦警察のFBIと(主に)CIAの「コラボ」(笑)なんである。また法律もたくさんあり、大統領命令では、(表向きは)CIAの暗殺は禁じられている。しかしそういう法律をかいくぐって、麻薬マフィアをなんとかせねばならない──。と、アメリカは今、真剣には考えていないと思う。テロリスト問題があるからだ。で、まあ、すでにして、この種の問題は「社会問題」の中心からは外れているような気がする。だから、そういう題材のミステリーである。


 最終的に、ブラントは「法律」を守る。それでこそ、優れたFBI捜査官である。一方、復讐のために、アメリカ国家を利用した、コロンビア人(「役」ですよ!)のトロは、ブラントの部屋を訪れ、合法的捜査であるむねの書類に、ブラントにサインさせようとするがブラントは拒む。しかたがないと銃をつきつけ、自殺に見せかけるぞと脅すが、ブラントはあくまでサインを拒む。しかしトロは、彼女を殺さずに去る。ベランダから、去っていくトロの背中に銃を向けるブラント。それを知っているトロは、抵抗をしない──。しかし、ブラントは、銃を下ろす……。ジ・エンド。


 FBI組の二人は、この種の映画ではマイナーな、女性(ブラント)と黒人。時代は変わった。


 ちなみに、国家内にいくつもの「情報機関」がある場合、各機関の協力体制は非常に重要である。それがまったくうまく行かなかった最悪の例として、先の、ベルギーのテロ事件がある。

 


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『Room』レビューについて [問題提起]

 自分の17歳の娘が誘拐され、監禁され、その間に、強姦による犯人の子どもを産み、奇跡的なチャンスによって、その子とともに、家に帰ってきた。その子どもはとてもかわいらしい。辛いことはあったかもしれないが、これからはしあわせに暮らしていこう。よかった、よかった。──この映画は、そういう趣旨のもとに作られている。


 その子が将来、「自分の父親は?」と、一度たりとも考えずに生涯を送れるなら、それもまたいいのかもしれない。


 こうした「事実」には、さまざまな見方が存在する。生物学的に見るなら、精子と卵子が結合すれば、べつの生命が生まれる。この一連の現象に、「事情」はいれない、これが「科学」の考え方だ。しかし、人間は、社会的生物であり、それによって、「意識」も生まれる。だからこそ問題は複雑になる。


 こうした事件に答えはない。だから事件なのであり、起こってはいけないことなのだ。そういうテーマで、どんなファンタスティックな映画を作ろうが、作り手の自由であり、また、それが市場に出て、観客が見て、「よかった、よかった」と思えれば、それに釘をさす権利は誰にもない。また逆に、私のように、強い違和感を持つのを、「あなたの見方は間違っている」という権利もない。


 当ブログの映画レビューは、Yahoo!レビューに投稿しているものを貼り付けて載せている。そのレビュー欄の拙レビューに関して、ある程度まとまった票が入っている。それを、「不正に入った」と、当レビュー欄を指して言っているレビュー氏があった。そんな場所に、知り合いだか親戚だか、パソコンの不正操作だか、数台のパソコンをあやつるだか、アカウントを多数作るだかして、仮に、何百票入れたところで、なんの役にたつ? というか、どんな意味があるのか? それは、しょせん、「お遊び」の世界である。どんなレビューであれ、それが、Yahoo! が定める「規定」に違反していなければ、どうぞご自由に、である。


 あきらかに、拙レビューを指して、「不正に票が入った」と書いているレビュー氏は、『Room』以外のレビューはない。この映画を、否定的に見るのは「表現の自由への侵害」とまで書いている。まさに、この人の行っている行為が、表現への自由への侵害である。と同時に、憶測で「不正に票が入った」と書いているので、名誉毀損でもある。当然、Yahoo!に、「違反報告」をしておいた。


 


 


『ルーム』──誘拐、監禁、強姦の美化(★★) [映画レビュー]

『ルーム』( レニー・アブラハムソン監督、2015年、原題『ROOM』)


 


 たしかに、画面は美しいし、この種の「事件」にありがちの、というか、想定されうる場面は、極力「描かれていない」。映画で描かれる「事件」を冷静に見つめるなら、17歳のスポーツの得意な女子高校生が、犬をどうかしたと話しかけて来た(作中、母親とやりあう、主人公が、「ママがみんなに親切にと言ってたから、私は犬を……」てなことを言い、漠然と誘拐されたきっかけが語られる)男に誘拐され、監禁され、強姦され子どもを産む。監禁は7年間続き、子どもは5歳となった。ということは、少女は、19歳の時この子を産んだことになる。18歳から妊娠していたことは十分に考えられる。出産はいかになされたのか? 男との関係はいかに変化していったのか? 7年も監禁された人間の精神状態の変化は?


 そういうことを、「すっ飛ばし」、映画は、5歳になろうとする息子と母との、監禁された部屋での生活から始まる。テレビ、ベッド、ソファや調理器具などが与えられている。息子はその部屋しか知らないで育つ。「犯人」の男は、(子どもの話からすると)日曜日にやってきて、生活に必要な品と、自分の欲望、端的にいえば、「被害者」との性交をして帰って行く。ドアは頑丈で、数字を入れて開ける方式になっている。壁に窓はなく、天窓から空が見え、昼夜や天候、光の具合はわかる。「被害者」は、必死に息子を育て教育しようとする。その監禁された部屋で、筋肉、体力、肉体の健康、心身の健康などを保とうとする。利発な少女であることはよくわかる。息子も限られた環境で、りっぱに育てようとする。


 そして、息子を死んだことにして、絨毯に巻き、男に捨てさせる計画をたて、息子には、どういうきっかけで逃げるか、教え込む。そして、「奇跡」がおこる。これは、まったくの「奇跡」である。そして、「幸運なことに」、被害者の親(両親は離婚していたが、両方とも、財産的にも愛情的にも良好な状態であった)は、彼女を迎え入れるに十分な環境にあった。実の父は、彼女の産んだ子どもを正視できない。これがこの作品でいちばんまっとうな態度であると思った。はじめから、親子が監禁されたのとは違う。娘は犯人にレイプされた結果産んだ子を育てているのだ。もちろん、いかなる子どもとて、子どもに罪のあるはずはない。子どもはいかに劣悪な環境であろうと、自分の育った環境を受け入れ、それが「ホーム」である。だから、彼は、「あの部屋に帰りたい」などというのである。


 日本でも以前から、そして最近も、少女を誘拐、監禁する事件が起こっている。しかし、アメリカであったケースに比べれば、「少女を少女のまま監禁したい」という欲望による犯罪であるように見える。私が以前見たアメリカのニュースでは、この映画の主人公のように、少女時代に、誘拐、監禁されていたが、子どもは何人も産まされて、しかも、その子どもも、レイプされていたなどというケースがあったと思う。


 そういう忌まわしい事件の現場からすると、本作の「ルーム」は、わりあい「こぎれい」なのが意外だった。


 そう、少年は、はじめて「リアルな世界」を知って、よかったね、とたいていの人は言っている。私は少年役の子役をまったくわかいいと思えなかった。この子役は、将来、この作品をいかように解釈するのだろう? また、最後、監禁されていた部屋を見にいった帰りに、後ろ姿の親子の背中に雪が降り出し、一見希望があるようなエンディングであったが、まともな神経なら、今後、このふたりを、さまざまな心理的、世間的障害が襲うだろうと思うだろう。


 本作がいかに「希望」を唱っていようと、こんな映画を作ったら、また同じような犯罪が起こり、そして、犯人たちをどこか許してしまうような余地を与えてしまうだろう。まるで、ガス室で生き残って、しあわせになった人々を描いた映画のようでもある。映画的できがいかによくても、このような映画は作ってはならなくて、作るなら、もっと覚悟をした映画作り(犯罪の深刻さにもっと深入りする。7年も監禁されるという状態がどうあるか)であるべきだ。この映画に、リアルなものはなにひとつない。すべてが、ある種の人工的な状況を作り出すためのご都合主義だ。犯罪をメルヘンにすり替えてしまったとも言える。


 なお、原題『Room』であるが、冠詞などがついていないので、「The(あの)」でも、「A(ある)」でもなく、単なる「空間」という意味であろうと思われる。

 

 


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『偉大なるマルグリット 』──音痴はキャメロン・ディアスにおまかせ!(★★) [映画レビュー]

『偉大なるマルグリット』(グザヴィエ・ジャノリ監督、2015年、原題『MARGUERITE』)


 


 のっけから別の映画ですけど、心に残る音痴キャラといえば、『ベスト・フレンズ・ウェディング』で、ほぼ初登場に近いキャメロン・ディアス。ジュリア・ロバーツとダーモット・マローニー(当時、超イケメン。キャスリーン・キーナー元ダンナ。今、中年チョイワルオヤジでたびたび登場)が「親友」同士で、大学を出たあとも、「どちらかが結婚するときは報告しようね!」なんて、わざとらしい約束を交わして、それが、マジに、「結婚します」と、男からの報告。意に反して(?)ショックを受けるロバーツ。「フィアンセを紹介するよ」。で、現れた、BCBGファッションのいいとこのお嬢さん丸出しのディアス。あまり美人とは言えないが、ブロンドに透き徹るような青い目。みんなでカラオケに行って、非の打ち所のないようなお嬢さまが歌い出す。これが、なんたって、ひどい音痴。そこで、妙に好感を持ってしまったロバーツ──だった。


 一方、本作、KY(空気読めない)なお国柄のおフランスの、KYな貴族の夫人が、自分の音痴に気づかず、オペラ歌手街道まっしぐら。1920年というから、全体にレトロな調度とレトロなカラー。問題は、音痴の世界が、ポピュラー・ソングではなく、オペラというところ。はっきり言って、この世界、よほどのプロでないと、ほとんど人が音痴っぽくなってしまうのではないかと思われる。だから、べつに、音痴で笑いを狙った映画でもないのだろう。となると、やはり、「黒」執事(失礼!)の愛か。この執事はなかなか面白い。まるで、(バロンと言っていたから、男爵か)男爵夫人を「標本」にしたかのように、彼女の写真を撮り続けているのだが、それが、妙な雰囲気が漂う写真なのである。


 金持ちの貴族だから、だれも「あんた音痴だよ」と言わず、ついにリサイタルを開くところまで来てしまった夫人。高音だしすぎで、舞台で血を吐き、入院。最終的に、治療法として、本人の歌の録音を聴かせようということになる。そして本人はそれを聴いて、息絶える? あるいは、気を失っただけ? だけど、論理的におかしい。自分の声ってのは、べつに録音でなくてもわかる。確かに、どブスでもうっとりと、自分の写真を公にして何憚ることのない人々がいるが、それと同じように、自分が歌がうまいと思い込んでいたのだとしたら、自分の声の録音を聴かされたところで、気づきはしないだろう。いったい、この映画の言いたいことはなんだろう? アメリカのとことん軽いギャグ映画でもなく、イギリスの『日の名残』のような「執事映画」でもなく、あくまで、おフランス的自己満足で進んでいく。3時間くらい?と思って、終わって時計を見たら、2時間しか経っていなかった……って映画(笑)。

 


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『知性だけが武器である——「読む」から始める大人の勉強術』──今更ながらの水増し本(★★) [Book]

『知性だけが武器である——「読む」から始める大人の勉強術』(白取春彦著、祥伝社、2016年3月30日刊)


 

 まず、本書、89ページ。「知らずに意味をあてずっぽうし、そこから自分なりの理解と解釈めいたものを引き出している。Amazonのレヴューなるものはその例で満載ではないか。そもそもレヴュアー本に書かれた日本語の文章が読めていないことが少なくない」。確かにそのとおりかもしれないが、なかには、専門家を上回るものもあり、プロの書き手もレヴューしている。最後の文章は、どう読んでいいか(笑)、おかしな文である。


 そのうえで言うと、本書の題名は、ある意味、言えている。しかし、こういうことを主張した本はすでに何冊もある。というか、2015年秋の時点で出尽くした感もある。少なくとも、手元にある本で言うと、本書以上に「精度が高い(水増し度が低い)」のは、堀紘一『読書は学歴を凌駕する!』(SB新書、2015年12月刊)である。


 そして「いかに読むか」を指南した本で、本書より「新しい情報が多い」と思われるのは、山口周『読書を仕事につなげる技術』(KADOKAWA、2015年10月刊)である。


 なるほど、これらの本は、いわゆる「ビジネス書」の範疇である。そして、白取氏が主張しているのは、ビジネスからは離れた、純粋の勉強である。これは一見ありがたいが、かなり抽象的である。抽象的なものは注意しなければならない。なぜなら、それは、白取氏も本書で注意している妄想と区別がつかなくなるからだ(笑)。氏は、ドイツ語系の「大学」で学んだので、「おすすめ本」はカントなどのドイツ語系哲学者が中心である。確かにカントは重要であるが、必読書の第一には来ない。まず近代における名著から入った方が入りやすいと思う。


 小林秀雄(の講演CD、『現代思想について』)が言っている、近代思想の名著は、2冊。ベルクソンの『物と記憶』と、フロイトの『夢判断』である。小林はカントも読み込んでいて、さらりと要点を述べている。氏のCDを聴くと、かなりの哲学書を読み、こなれていることがよくわかる)本書の言ってることは、「おおむね正しい」んでしょう。しかし、小林秀雄は、「正しいかどうかなんて、大したことじゃない。正しいことなんて、子どもでも言える」と言っている。


 要するに、本書は、その「正しいこと」を、自分が読んだ本(含エンターテインメント本)から長々引用したりして、ページ数を水増しし、文体を、「エラそうにして」、なにかありげに説いた、氏が過去に出された本の内容を繰り返しているだけの本である。


 なにを言ってるかではなかく、どういう著作(思考のあと)があるかで、その人の言っているかどうかに従おうとするかを、私は決めている。このテの「勉強本」ばかり出しているってのもねえ……(笑)。


 しかも、一冊の本をひたすら読めは、いいが、脳は飽きやすいので、100冊くらいの本をスイッチングして読んでいるという、山口周の方が、新しやり方と言える。ちなみに、山口氏の本でも、ビジネス書ではあるが、哲学書は紹介されている。


 しかしまあ、ドイツ語系の哲学書、宗教関係の本もいいですが、やはり、純粋勉強というなら、日本の古典でしょうね。白取氏も日本語ができないと、と言っているし。そのわりには、できてないように見えますが。以上、Amazonのテキトーなレヴューです(笑)。

 


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