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【訳詩】ウンガレッティ「死期」 [訳詩]

「死期」  ジュゼッペ・ウンガレッティ


 


ヒバリのように渇いて


蜃気楼を突き抜けて死ぬか


 


ウズラのように


海を渡り終えたあとの


最初の草むらのなかで


もう飛びたくないと


思って死ぬか


 


しかし視力を失ったゴシキヒワのように


歎きながら生きたくはない


 


****


 


"Agonia" Giuseppe Ungaretti


 


 


Morire come le allodole assetate


sul miraggio


 


O come la quaglia


passato il mare


nei primi cespugli


perché di volare


non ha più voglia


 


Ma non vivere di lamento


come un cardellino accecato


 


****


 


"Agony" Giuseppe Ungaretti  (Translated Andrew Frisardi


 


To die like skylarks thirsty


over the mirage


 


Or like the quail


after crossing the sea


inside the first bushes


because it has no wish


to fly anymore


 


But not to live lamenting


like a goldfinch blinded


 


 


****


 


From " L'ALLEGRIA"(『喜び』, "Joy", 1931



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『マダム・フローレンス! 夢見るふたり 』──視点人物分裂によって物語減速(★★★) [映画レビュー]

『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』(スティーヴン・フリアーズ監督、2016年、原題『FLORENCE FOSTER JENKINS』)


 


 音痴というが、この種のクラシックの歌曲は、音痴かどうかよくわからない。


 


 音痴で思い出す映画は、ジュリア・ロバーツの『ベスト・フレンズ・ウェディング』(1997)で、ジュリアの男の親友の婚約者で、私はこの時初めて見た、キャメロン・ディアス演じる良家の子女が、カラオケで歌う、ド音痴の歌である。これによって、ジュリアは、嫉妬を感じていた相手に、共感を持つ。その音痴さはハンパでなかった。音痴というのは、カラオケ程度の歌にしてはじめて言えるもので、本編のようなクラシックの歌曲となると、いくら高音で、「はっはっは〜ああああ〜」とやっても、あまり笑いの対象にはならない。ゆえに、本編より先に公開された、同じ物語と思える『偉大なるマルグリット』もあまり笑えなかった。


 


 だいたい音痴という題材は、その原因が、肉体的欠陥が可能性として考えられるので、それほど笑えないのだ。まさにその通りで、本編の主役フロレンス(メリル・ストリープ)も、実は、若い時夫から移された梅毒の治療法の水銀の毒によって肉体をひどく損傷しているのであった。そういう「事実」が根底にあり、音楽への入れあげ、ヒュー・グラント扮する事実婚の夫シンクレアの献身などが派生する。


 フロレンスがいつも大事に抱えている鞄の中身は謎ということになっているが、そのうち、それは、財産目録並びに遺言書のような書類であることがわかる。となると、いくら事実婚とはいえ、夫の献身も、疑わしいものになってきて、そのあたりを映画は、かなり曖昧にしている。ほかにも曖昧にしているところはあって、事実婚の夫婦は、妻の病気(水銀中毒とその後遺症。さらに穿てば、妻の高齢)によって性生活はできないので、夫は外に、妻が認めているらしい、愛人を囲っていて、その住居費も、財産家の妻が出している。いわば公認で、そちらのおうちへ、シンクレアは、妻を寝かしつけたあと、「帰っていく」。その愛人が、レベッカ・ファーガソン演じる美女なのである。けっこー、まー、なんてよい暮らしなんでしょー、この夫は、となる(笑)。そのあたりの、シンクレアの本心も、ぼかして描かれているように見えた。確かに、音楽への思いが若き日に絶たれてしまった妻には同情し、かつ、彼女の純真さを愛してはいるだろうが。


 


 フロレンスの歌曲のピアノの伴奏者に採用されるコズメ・マクムーン役の、サイモン・ヘルバーグがいい味と、ピアノのセンスを示して、これがこの映画の魅力になっているが、実際、フロレンス、シンクレア、コズメの主要人物三者の視点が三様に分かれ、映画を中心を欠いたものにしている。これらのうち、どれか一人の視点にすべきだった。

 

 



『ブルーに生まれついて』──歴史に残るジャズ映画の傑作(★★★★★) [映画レビュー]

『ブルーに生まれついて』( ロバート・バドロー監督、2015年、原題『BORN TO BE BLUE』)


 


イーサン・ホークがチェット・ベイカーを演じるという情報がFacebookに流れてきた7月から、「おおーッ!」と感じ、すぐにサントラの一部の、イーサンの My Funny Valentine と I've Never Been In Love Beforeを、ベイカー自身のものといっしょに、iTune Storeで買って聴き比べていた。


 


 イーサンはかなり特訓をしたようだが、たとえば、My Funny Valentaineは、チェット本人の甘く痺れるような歌声には及ばない。チェットはRとLの音の正確さ(これと比べると、イーサンは英語のネイティヴではないように聞こえるが、それはそれで初々しい感じでよい)に加え、その音がいかに甘美になるかをも示して、たった一つの音にも広がりと深みを与え、これ以上ないという完璧さで歌っている。もし、シナトラ(これとも聴き比べているが)の明るく軽い歌い方が、一般的なら、ベイカーは、それをどこまでも個人の歌として脱構築しているといってもよく、それはトランペットにもいえて、これが、ニューヨークのクールジャズに対する、ウェストコーストジャズというものなのだろう。


 


 本編の目的は、ヘロインで身を持ち崩したダメ男の半生ではなく、ジャズ史のある一面を描こうとしたところにある思う。ゆえに、本編は、すでに成功して、転落したベイカーの人生の中盤から始まる。その転落からいかに這い上がっていくかを描きながら、周囲のジャズメンたち、と、そのエピソードをさりげなく語っていく。ベイカーより8歳年上で、お先に「ヤク人生」を行ったチャーリー・パーカーの話から、ニューヨークでクールジャズの帝王である、マイルス・デイヴィスとの、「接触」。


 


 白人であり、軟派な男であるベイカーが、ことトランペットに関しては、すごい根性を見せ、マイルスをも恐れさせる──。だがやがて、ヤクととも、ヨーロッパへ消えていく──。その柔らかな明けの明星の軌跡のような美しさを、中年になっても無垢な美しさを保っているイーサンが演じる。もうそれだけで「傑作」なのである(笑)。


 


 なにより、映画が始まってすぐに、ウェストコーストの海岸風景が、ゴダールの映画のように切り取られ、本編で一番印象に残る曲(My funny Valentaineでも、I've Never Been In Love...でもなく)、チャーリー・ミンガスの歴史的名曲、Hatian Fight Song(『The Clown』所収)が流れ、チェットの心象風景を描写する場面にはぞくぞくした。それは、文字通り、「虐げられた民族」の「闘い」なのである。ここにこの監督の志が現れているといってもいい。


 


 今の評価はともかく、歴史に残るジャズ映画の傑作と見た。


 

 


「その一枚のアルトー」 [詩]

「その一枚のアルトー」


 


スーザン・ソンタグのアルトー論は、何十年か前に完璧に読んで、最後の行にまで線が引いてある。


昭和五十一年八月三十一日に出たその本は、奥付に、初刷千五百部と、部数まで印刷されている。おそらく、第二刷以降が出たとも思えない。するとこの本は、日本にある本の、千五百冊の一冊なのか──。


私は卒論が、ソンタグの思想を中心に展開したので、ソンタグの本はよく読んだと言える、かも知れない。当時の読書力の範囲で。

ソンタグは、テロについて、病について、とりわけマイナーな芸術について書いている。しかし、正直言って、「いまの時代」に、コミットするものはなにもない、と言える。


トランプの出現を分析する能力は、たとえ彼女が存命でも、もはやないだろう。


おそらく、私は、アルトーの本も読んだだろう。その中にあった彼の写真は印象的であった。美男子とも言えた。


彼が舞台で展開したものは、「なまの生」? あらかじめ脚本で定められたものでなく。それは、「生」の提示。


百五ページのこの本の、随所にアンダーライン(といっても縦書きなので、右線とうことになるが)が引かれているのに、どの行も、すぐにはピンと来ない。


どれかひとつ引用すれば、それなりにかっこうもつくのだろうが。


今は私は、引用からもはじかれて、ここにある。


ソンタグもアルトーも、炭素のようなものになっている。


「アルトーの作品においては、きょうじん(Atokはこの文字の転換を拒否する。「なに」に、遠慮しているのだ?)は究極の犠牲者であると同時に破壊的な叡智の持主であるという二重の自己同一性をもつ。全集を出したいというガリマール社の申し入れを受け入れて一九四六年に執筆した序文のなかで、彼は、精神異常と失語症と無学とを一身に寄せ集めた精神的失権者として自己を描写している。また、最晩年二年間の著作のなかで、彼は繰返し自分を、天分に恵まれていたために狂気に陥った人々──ヘルダーリン、ネルヴァル、ニーチェ、ヴァン・ゴッホ──の仲間に位置づけている。天才とは個性的なものの延長であり増幅にほかならないというかぎりにおいて、アルトーは、ロマン主義者たちの場合よりはるかに明確な意味において、天才と狂気のあいだの自然な類似性の存在を暗示する」(スーザン・ソンタグ『アントナン・アルトー論』、岩崎力訳、コーベブックス、1976


その一枚のアルトーを、似非詩人への、逆踏み絵として差しだそう。

 

 

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『メン・イン・キャット』──脚本がめちゃくちゃ(★★) [映画レビュー]

『メン・イン・キャット 』(バリー・ソネンフェルド監督、2016年、原題『NINE LIVES』)


 


 中年男がネコになったはいいが、肝心の主役ネコと、その仲間たちが「弱すぎる」。「いかにもネコの」展開にならない。確か、何百回(もっと多い?)生きたネコとか、そんな物語もあったかもしれないが、ネコは九つの命を持つというのは、普遍的な神話なのか、本編でも、それがキモになっている。


 


 ネコに魅力がなければ、曲者俳優、ケヴィン・スペーシー扮する男にもまったく魅力がなくて、財界の大物で、興味は仕事のことばかり、家族をかえりみず、十二歳だかの娘の誕生日もおざなりのところ、娘はネコをほしがっていたと思い出して、ニューヨークの、いかにも怪しげな、「ネコショップ」へ立ち寄る。そこには、いかにも怪しげな店の主人が待ち構えていて、それが、クリストファー・ウォーケンで、こちらの感じは、「いかにもネコ」で、それだけは面白かったので、星は二つ。


 


 それにしても、世界一高いビルを、他社と競っている、超多忙のはずの実業家ケヴィンだが、けっこー女にはマメなのか、離婚再婚を繰り返していて、「今の」妻は、モデルあがりのジェニファー・ガーナー扮する女で、見ていると、唇がゴムのように動く。そこばかりに、妙に目がいって(笑)、その十二歳だかの娘が、ガーナーそっくりで、唇の動き方もそっくりなのだ。


 


 しかし、ケヴィンには、前妻もいて、彼女もときどき、「今の」妻の前に現れて、妙な助言(?)などする。だいたい似たようなタイプだが、「前の」妻の方がやや老けている。この妻との間には、息子がいて、それが二人か一人か、寝落ちして(笑)、判別できず(笑)。あれは、やっぱり、一人の息子がもう一人の息子と、ケヴィンの後継者を争っていたのか? とにかく、その息子は、ネコに救われる──。


 


 こりゃだめだ、脚本がめちゃくちゃだわ(爆)。

 

 


「飯島耕一が染みる朝」 [詩]

「飯島耕一が染みる朝」


 

 ブラッサイの写真集に書かれた、飯島耕一の文章を読んでから、なぜか気になりはじめた。それで、リビングの扉付き本棚にしまい込んでいた、一九七六年に出た(それは七〇年に出たものの第二版だった)、『シュルレアリスムの彼方へ』という銀色の本を取り出してきた。夥しい本を古本屋やブックオフに売ったが、この本はいつまでも、難を逃れていた。この本はどういう本かというと、飯島耕一と大岡信と東野芳明が、シュールレアリスムについて、いかに無知だったか、しかし、いかに熱中してたか、つまり、無知で熱中していることを、実にほがらかに書いた本である。そして、それだけ、シュールレアリスムの近くにあったと主張する本だ。


 


ああ、今更ながらに、飯島耕一が染みる朝であるが、とうの飯島耕一はそんなこと、あの世で、想像だにしないであろう。四十年も経てから、深く共感してくれる読者が現れようなどとは──そんな朝だ。


 


ボードレールが時間のように降ってくる。

 

 

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詩集出しました。 [詩]

突然ですが、詩集出しました。


個人情報露出住所禄雑誌を見て、突然送りつけるようなことはしません。Amazonにもおいてません。ここでしか、買えません。でも秘かに買っても、誰が買ったかはわかりません(笑)。Facebookで発表したものばかりですが、詩集にして初めて見えてくるものもあります。言葉や時間と戯れたいひと向き。






https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=103861158







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