So-net無料ブログ作成
検索選択

【絵と詩】「バスの中でスマホを見る女」 [詩]

「バスの中でスマホを見る女」


 


窓ガラスに映るスマホの画面は、


かつて夢見た未来の国の遊園地のようだ


江戸時代の女がごくあたりまえに、


お歯黒を塗ったように、


ごくあたりまえに、スマホを出して見る女


の頭はからっぽ。


何も考えてない。


おのれの未来さえ。


あんたが、やがて年老いて、年金なんか計算して、


すでに誰にも振り向かれず、


けれど、まだ若いと信じて、


ちょっと遅れたバージョンの


スマホを取り出して、見ている。


GAMEか、LINEか、SNSか。


よくみてごらん、あんたが信じる


NETのなかは、すでに累々たる死人でいっぱい。


すでに百年経っているから、


ユーザーたちはみんな死んでしまった。


いや、生きているユーザーもいる。


それは、彼らの子孫で、ゴミ捨て場で拾った


スマホのスイッチを入れている。


幽霊サーバーはどこかにあるらしく


「キャピーン」と反応する。


そう、一生気づきもしないだろう、


誰かが百年前に、あんたの後ろ姿を


描いていたことなんて──。


 

バススマホ.jpg


 


『未来を花束にして』──31歳キャリー・マリガン演じる24歳の闘士(★★★★★) [映画レビュー]

『未来を花束にして』(セーラ・ガヴロン監督、 2015年、原題『SUFFRAGETTE』)


  ユーザー・レビューを見るかぎり、「女性がどのように、いつ、参政権を得たか? しかも、どの国の順番で」などという問題は、今を生きる人たちにとって、どーでもいい問題のように思える。本作は、ヒーローのような人物が大活躍して、みごと女性に参政権を獲得させる!という物語にはなっていない。


  時代は、1910年代の、第1次世界大戦時分で、世界的に、女性に参政権を!という運動が始まった時代であり、ニューヨークなどが先陣をきって、女性のデモが行われていた。だから、ロンドンも同じような流れとなっている。ひとつのモニュメントとして、主人公、モード・ワッツ(キャリー・マリガン)の仲間の一人である女性が、女性の現状を訴えようと、国王が出席するダービーで、マリガンとともに「直訴」に出かけるが、チャンスを阻まれ、走っている馬に飛び込む。走る列車に飛び込むようなものである。その運動家は、自分の命と引き替えに、世界中に、運動をアピールすることができた(らしい)。


 よって、イギリスの女性参政権は、1920年代に認められる。フランスは、確か、1944年あたりである。映画の最後に、各国が何年に、女性の参政権を認めたが、文字で出てくる。日本はなかったが、調べたら、1945年であった。男性でも、金持ちでない普通の人の参政権が認められたのは1925年だから、イギリスの女性とどっこいどっこいなのである。


 そして、国によってはつい最近、女性参政権が認められた国もある。つまり、「格差」は、百年にもなる。


  さて、本編は、その、女性参政権を求める壮絶な運動を描いているが、群像劇というより、平凡なヒロイン、モード・ワッツが、強かな活動家になっていくさまに焦点が定められている。平凡といっても、今の平凡とはわけがちがう。「6歳から働き始め、12歳から本採用」で、洗濯工場で、いまは機械がすることをすべてやっている。母も同じ職場であり、モードはここで生まれた。子どもが工場で働く、というのは、マルクス『資本論』の註にも出てくるし、ディケンズも描いている。ひどいのは、3歳ぐらいから働かされている。赤ん坊を気取ってる場合ではないのである。つまりは、「子ども」の「人権」なんてのもなかったのである。


  24歳のモードは、すでに3歳ぐらいの子持ちで、まあ、見場もよく似合いの夫(ベン・ウィショー扮する)で同じ職場で働く男と、「それなり」平穏な日々であった。


 だが、あることをきっかけに、「人権」に目覚めてしまう。そのところを、今回も童顔を生かした(と、本人も『17歳の肖像』の頃から言っていた)、31歳のキャリー・マリガンが冷静に演じている。もともと過激なところなど少しもない女性が、しだいに強さに目覚めていく。投獄も経験する。テロもやってのける。といっても、彼女らのテロは、郵便ポストや空き屋などを対象として、一応人は傷つけないことを目標としているが。


  メリル・ストリープが、完全に「イギリスの市川房枝」になりきっている。しかし、出番は少なく、映画の中でも、影のように動く。


  主人公は、婦人参政権運動に身を投じてしまったばかりに、夫に追い出され、子どもまで養子に出されてしまう。そういう辛い物語を、ただただ、「未来への子どもたちのため」を信じて屹然と行動する。キャリー・マリガンの柔らかなほっぺと、甘やかな眼差しのアップが、歴史というよりは、一人の女性の存在を際立たせていた。

 

 

 

 



『トランプは世界をどう変えるか? 「デモクラシー」の逆襲 (朝日新書) 』──「勝てば官軍、後出しジャンケン」本(★) [Book]

『トランプは世界をどう変えるか? 「デモクラシー」の逆襲 (朝日新書) 』──「勝てば官軍、後出しジャンケン」本(★)

 

 

『トランプは世界をどう変えるか? 「デモクラシー」の逆襲 (朝日新書) 』( エマニュエル・トッド 、佐藤優 著、2016年12月26日、朝日新聞出版刊)

 

 エマニュエル・トッドは、フランスの「私はチャーリー」現象を、専門の統計学から分析し、フランスでは少数派の、期待の学者だったが、本書で完全に失望した。主張は、おもに「後出しジャンケン」。トランプが大統領選に勝った「直後」、ほらみろ、トランプは、アメリカ最下層の意見を代表している、というのが主張である。

 

 一方(そう、これは両者の対談ではなく、「(おもに)インタビューを)つなぎあわせただけ」の本なのである。しかも、ページ数もかなり少ない。しかも、従来の朝日新書に、目立つ真っ赤な衣装まで着せている(笑))、今や「インテリジェンスの大家」(笑)佐藤優、この人の本もけっこうたくさん買って、ふむふむそうかそうかと信じた(笑)。確かに勉強かであり、かつては外交官(佐藤氏にかかると、「スパイ」みたいだが(笑))として赴任していたロシア情勢には、詳しい……ような態度を取っている。だが、たとえば、『ファイナンシャル・タイムズ』の前モスクワ支局長、チャールズ・クローヴァー氏が出版した、『ユーラシアニズム』のような本など書けまい。せいぜい、それをネタにして、水増し本を書く程度であろう。

 

 本書が浅薄なのは、アメリカ大統領選を、「当たるか当たらないか」の、まるで下手な占い師の実力比べのような切り口で扱っている点だ。本書によれば、トッドは、完全にトランプ大統領を断言し、佐藤優は、断言まではしないが、可能性としては残していた、そして、自分はさておき、副島孝彦氏は、断言し、当てたと、尊敬のまなざしなのである。

 

 当たる、当たらない、で言えば、確立は2分の1。どちらかを強く主張し、結果としてその通りになれば、「それみろ!」である。そういう世界か。むしろ、アメリカの、大部分の予想をはずした(というより、望まなかった)知識人たちのように、「やはりトランプはおかしい」といい続けることが誠実な態度とも思える。

 

 本書は、「緊急出版」はいいが、ほんとうに、トランプ当選「直後」なので、現在ただいま(2017年1月29日)の時点まで、十分予想できていない。

 まず、トッドが主張する、「トランプは、アメリカの最下層の支持で当選した」であるが、すでに、プーチンがサイバー攻撃によって、アメリカ大統領選にかかわったことが、わかっている。トッドはこの点についてはいっさい「予想していない」。

 

 また、二人(トッド、佐藤氏)とも、トランプはただ言動が過激だけで、実際は、誠実な庶民の味方であるかのような表現をほのめかしている。しかし、今、トランプは、法律としては高い遵守が求められる、エグゼクティブ・オーダー(大統領命令)によって、選挙前の主張通り、メキシコとの間に壁を築こうとしているし、低所得者をも守った、オバマ・ケアをも取りやめにしようとしている。ほかにも、独善的なことをどんどん進めている。そして、クリントンがいかに金まみれのワルモノかも、ほのめかしている。

 

 少なくとも、佐藤優氏は、リベラルではなかったのか? いったい、どうなっているんだ? この日和見は。

 

 

 


【訳詩】フランシス・ポンジュ「貧乏漁師たち」 [訳詩]

フランシス・ポンジュ「貧乏漁師たち」


 


 引き手が足りず二つの鎖は張られた状態で動かなくなる王の河口で、ガキどもは真ん中カゴのそばで喚く:


「貧乏漁師!」


ここにランタンの下にて申告物の抜粋:


「飛び跳ねて砂の上に消えた魚半分、とほとんどの海へ帰った蟹」


 


(『ものごとの偏見』より)

 



 


Francis Ponge 'PAUVRE  PÊCHEURS'


 


A court de haleurs deux chaînes sans cesse tirant l'impasse à eux sur le grau du roi, la marmaille au milieu criant près des pamiers :


Pauvres pêcheurs!


Voici l'extrait déclaré aux lanternes :


Demis de poissons éteints par sursauts dans le sable, et trois quarts de retour des crabes vers la mer.


 


"Le parti pris des choses"

 


 


『沈黙 −サイレンス−』──俳優の肉体+風景美のカット+クリアな問い(★★★★★) [映画レビュー]

『沈黙ーサイレンスー』( マーティン・スコセッシ監督、2017年、原題『SILENCE』)

 フロイスの日本史によれば、本作の時代より百年ほどの前の織田信長の時代より、キリスト教徒の迫害は行われていて、それは、信長自身による、一種の「ジェノサイド」のようだった。キリスト教徒はもちろんのこと、ついでに反抗的な百姓など、ちょうどナチのユダヤ人迫害の時、ジプシーや同性愛者も「処分」されたように、権力にとって都合の悪い人間、組織からはみ出してしまったような人々もまとめて、老若男女を問わず、大勢が処刑されていた。その場所は、おもに、法華経の寺であった──。

 日本の国としては、ようやく百姓などの下部組織にいる人間たちが、「村」単位に支配、搾取されるのに目覚め、一揆を起こし始める。それには、キリスト教がもたらした、個人の人間としての目覚めが、人間扱いされなかった人々の意識を支えたとも言える。そういう「思想」は、キリスト教であれ、なんであれ、権力にとっては邪魔なのである。その運動の頂点は、十五歳くらいの天草四郎をリーダーとした、島原の乱であり、何十日も城に閉じこもって抵抗したのち、ついに投降した。そうした事件ののち、本作の主人公のロドリゴとガルペの、二人の宣教師は、消息を絶った師、フェレイラを探して、マカオ経由で日本に密航してくる──。

 ここに描かれているのは、あくまでフィクションである。ポルトガルからの宣教師が、すらすら英語で話すのも現実離れしている。ポルトガルならカトリックであり、オランダはプロテスタントだから、同じキリスト教とはいえ、少し違っていたろうし、南欧からの「宣教師」たちは、南米では、原住民を非人間的なやり方で洗脳しているのだから、この日本へ来て、逆に迫害されているのは、いったいどうしたことやら?と思ってしまう。

 しかし、隠れキリシタンの伝説はあって、そういう小さなエピソードを、純文学らしからぬ筆致で物語ったのが、遠藤周作の『沈黙』なのであろう。

 そういう話を映画化しようと、二十八年も温め、ここに完成となったのであるが、ほんとうの歴史はどうかとか、日本の僻村の景色にしては雄大すぎるとか、廃村に群がる猫が太っていたとか、そういう話はおいておいて、これはとんでもなくできのよいエンターテインメントなのであろう。

 まず、役者がすばらしい。欧米、日本とも、メインキャストは長身、すらりとした美丈夫が集められている。スパイダーマンのアンドリュー・ガーフィールド、『スター・ウォーズ』カイロ・レンの、アダム・ドライヴァーが、二人の宣教師を演じ、よれよれの衣装に美しい肉体を包んで、苦しみに身をゆがめる姿もさまになる。日本側も、立ち姿が美しい、浅野忠信、窪塚洋介をあて、欧米の二人に決してひけを取らない。

 特筆すべきは、当然、キリスト教徒迫害担当奉行「イノウエ」の、尾形イッセイである。常に笑いを浮かべ、拷問の指揮を取る。このキャスティングは、尾形が、十数年前、ソクーロフの『太陽』で、昭和天皇を演じたのを、きっとスコセッシは見たのだろうと思う。そこには、批評性さえ感じさせる申し分ない昭和天皇が演じられていた。尾形はこの時から、すでに国際派の俳優となっていたのである。

 コンフェッションをしに来る、村のオバチャンの片桐はいりも、結構セリフが多く、相変わらず声を出して笑わせたが、とくに浮いてはいなかった。

 こういう俳優たちの肉体にくわえ、美しい自然のカット(台湾で撮られたそうだが)、そして、人間の精神とはなんなのか?という、クリアな問いの提出をくわえるなら、スコセッシが映画で表現しようとしていることも、おのずと明確である。魅せられ、考えさせられ、まずは極上エンターテインメントに慶賀を表する。エンディングの、音だけの、夏を思わせる「見えない映像」にも、粋な洗練を感じた。


けふの一首@20170122 [短歌]

 

 寒に耐へ肩寄せ合ひて夢を見る女房たちの禁色は赤

 (『紫式部日記』を読んで)




ベンヤミン『パサージュ論』考、その1 [文学]

ベンヤミン『パサージュ論』考、その1

仏作って魂入れず、などという言葉があるが、ある意味、ベンヤミンの「パサージュ論」は、「仏」だけでできあがっている。その仏も、断片の仏である。
「パサージュが登場するための第一の条件は織物取引の隆盛である」「第二の条件は鉄骨建築が始まったことである」というところからはじまって、どこまでも徹底的に即物的、今のところは、唯物論的と言う人をも拒まないが。
どこまでも断片と引用を連ねて、ひとつの大伽藍を形づくるつもりだったのか。
パリでは、この鉄骨を使って、いくつもの商店を連ねるガラス天井の屋根を作ったが、ニューヨークでは、鉄骨など使わずに、百階建ての、上方に伸びる建物を造っていた。



断片としての詩論 [文学]

「断片としての詩論」

ある人がある人に送った冊子で、たまたま送った人とはべつの人の詩を読んだ。そこには、デバイスだの、アーカイブだの、インプットだのというIT用語というのか、そういう単語が、情緒的ともとれる「ストーリー」にちりばめられていた。本人は、それでなにか精神的にハイレベルな概念を説明しようとしたのか、それとも、日常的に使っている言葉を無意識に使ったのか。いずれにしろ、それらの言葉が、その文章を詩ではなくしていると思った。


【詩】「熱王」 [詩]

「熱王」

 


熱王の支配する国は

陰影がなく、

限りない細部が拷問のように
人を苦しめる

増殖する膠着状態と、

ノスタルジーを許さぬ

精神の管理者が、

きみを絶望以上のものに導く

ああ、どこか、1℃でも、

温度の低いところで安らぎたい

しかしそれは万年に一度の夢だ

病床で読む、アンリ・ミショー。

科学革命は着々と進む

命の向こう側へ

「行ってみたいと思いませんか?」♪

 

 


『アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場 』──映画の変容(★★★★★) [映画レビュー]

『アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場』( ギャヴィン・フッド監督、2015年、原題『EYE IN THE SKY』)


 


 映画.comの、批評家氏の、資料丸写し、判で押したような文章を読み、この人は何がおもしろくて映画を観ているのだろうと、心を寒々しい風が吹き抜けた。すべて外している。これは「戦争」ではなく、「テロリスト捕獲」が目的の諜報部を中心にした、英米共同作戦である。そして、その実行リーダーである、大佐のヘレン・ミレンは、批評家氏が紋切り型に片づけている「猛女」などではなく、家に帰れば夫もいる普通の女である。そして、この映画で描かれているのは、アメリカの軍事基地のドローン・パイロット、イギリスの国防相の将軍も、すべて、「普通の人」なのである。普通だから、「作戦」が終わったあと、ヘレン・ミレンは車を運転して自宅へ帰っていくし、国防相のアラン・リックマンは、孫らしい者への人形のプレゼントを選び、べつの大臣はホテルのトイレに入ってうんこをしている時に(笑)、重大な知らせを受ける。また、アフリカ側の、犠牲になるパン売りの少女にはやさしい両親がおり、パンを作る母や、少女にフラフープを作ってくれる父がおり、普通の暮らしが描かれる。


 しかし映画の時間は、テロリストの潜伏する建物の側で、少女がパンを売る一日である。その時間に映画は集約され、あらゆる情報を披露していく。とりわけ関心を引いたのは、ドローンを使った「戦争」における法律の整備であり、日本国憲法のように、その法律は、人々を守るために存在している、というか、権力に対して意義を申し立てるようにできていることがわかる。まず、テロリストが潜む建物をミサイル搭載のドローンで攻撃する際でも、ただ単に攻撃するのではなく、「刻々変化する不測の事態」が加味されている。常に、最小の犠牲者も計算されている。また、攻撃を実行するパイロットは、ただ上の命令に従うだけではなく、パイロット個人の意義を差し挟む余地が盛り込まれていて、実際彼はそのようにする。


 ここへ来て、映画というものが完全に変容しているのに気づく。感動的な物語を語るのではなく、現代の情報をできるだけ盛り込み、たとえば70歳になるヘレン・ミレンをも、りりしく美しく描き、答えの押しつけではなく、問いをさりげなく提出するというようなものに。エンターテインメントには違いないが、より精緻で知的なものになっている。

 


メッセージを送る