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祝!アカデミー賞! [映画分析]

『ラ・ラ・ランド』が監督賞、主演女優賞を獲得!


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『ラ・ラ・ランド』──ポストモダンのミュージカル(★★★★★) [映画レビュー]

『ラ・ラ・ランド』( デイミアン・チャゼル監督、2016年、原題『LA LA LAND』)


 60年代のファッション、カラー、アイテムなどを材料にした(「映画の現実」の時間は、スマホ、プリウスなどがある、21世紀の現在)、まったく新しい切り口の「ミュージカル」で、さすが、ハリウッドの職業組合も、その点を評価した、今回のノミネートだと思うと、ハリウッドも捨てたものでない、そして、時代は完全に変わっていると思われる。


 本作に不満を持っている観客は、いにしえのミュージカルが頭から抜けないのだと思う。これは、のっけから、まったく新しい切り口であることが知らされる。ここで、理解できないと、それは、最後までひきずってしまうことになる。


 私はこれまでミュージカルはあまりすきでなかった。というのも、ストーリーはお飾りで、繊細な心理までは描かなかった。雨のなかでノーテンキに踊る男に、共感はできなかった(笑)。


 それが本作では、ジャズの神髄から、時間への考察などが、登場人物の男女の繊細な心理ものとして表現されている。


 それに、女優が女優を演じたり、ハリウッドそのもの題材にすることも難しいが、その難しさを大胆にクリアしている。


 俳優たちも、肉体を十分に駆使して、演技が本来、肉体運動に近いことを教えてくれる。


 それに、オマージュ、というより、さまざまな「引用」が洗練されている。とくに、フリージャズ志向のライアン・ゴスリングは、ビル・エヴァンスを思わせなくもない。


 夢とは叶えるもの。ジャズとは脱構築である。ということをあらためて認識させてくれる。


 


 


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村上春樹著『騎士団長殺し 第1部顕れるイデア編』『第2部 遷ろうメタファー編』──読まずにすませたい読者のために(笑)(★★) [小説]

村上春樹著『騎士団長殺し 第1部顕れるイデア編』『第2部 遷ろうメタファー編』──読まずにすませたい読者のために(笑)(★★)

 

『騎士団長殺し 第1部顕れるイデア編』『第2部 遷ろうメタファー編』(村上春樹著、2017年、新潮社刊)

 

「今回も」、この思わせぶりっこの題名と、目次のせいで、買ってしまいました(爆)。というか、も〜べつの楽しみがあるんですね。いかに「偉大でないか」を探るために。まず、本作、「このミステリーがすごい!」みたいなエンタメ系の賞に応募したら、1次落ちかと思われます。だいたい、「広義の」ミステリーにすらなっていません。まず、この「騎士団長」というのは、十字軍関係かな〜と思ったけど、「歴史」は、この人のレパートリーにはなくて、これは、モーツァルトのオペラ『ドン・ジョンバンニ』からの借用です。そして、ある老画家が、こういう題名の絵を描き、それが、たまたま、主人公が借りたアトリエの屋根裏にあるんです。そして、この騎士団長(身長六〇センチほど)が絵の中から登場し、「自分はイデアが形を取ったものである」なんてぬかす。

 副題の「顕れるイデア編」というのは、なんのことはない、そういうことです。

 

 第二部、「遷ろうメタファー編」は、そうお察しのとおり、絵の中から出てきた、「顔なが」と呼ばれる人物(身長七〇センチ)が、自分は、「ただのメタファーが形を取ったものである」と主張。そんだけのこと。

 

 あと、女がいろいろ出てきて、毎度のように、すぐにセックスしたりします。まさか、13歳の少女とはやらないだろうな、と、祈りのような気持ちをもって読み進むと、これは、ご安心ください、手は出してません(爆)。でも精神的にはやってると思う。でも、「ロリータ」書くほどの才も度胸もなし(笑)。

 

 この小説は、おそらく、「第三部」「第四部」ノノと、いくらでも続いていく可能性はすでにはらんでいます。というか、こういう書き方だと、どんどん続けていけるんです。

 

 ドストエフスキーもカフカも、生存ぎりぎりの人間を描いています。しかし、村上春樹の登場人物は、今回だと、肖像画家ですが、いとも簡単に仕事はやってきて(キャンバスの大きさを1メートルラ1.5メートルとか、数字で言うかな? F50とかのサイズが自然に出てくるんじゃないかな? 画家なら。っていうリアリティの問題は、「ないものねだり」なので、棚上げ)、あまり生活に困っているふうでもなく、だから、つまらん妄想に肝を冷やしたり、できるんです(笑)。車の種類と登場人物の服装は、やけに詳しく書かれている。ヘンリー・ジェームズは、人物の名前、職業、など、すべて省いても、リアルで怖い小説を書いているのであるが。

 

 ま〜、渡辺淳一が書いたラノベというかノノ。★はひとつでもいいんですが、(Amazonで)二つがなかったので、二つにしました(笑)。

 

 件の老画家のオーストリア留学時代の恋人がナチに殺されたとか、弟が南京で、中国人を「殺させられて」心に傷を受け自殺(村上春樹のキーワードのひとつですが)したり、いろいろ、あたかも「歴史に抵触したかのような」エピソードは出てきますが、それは、あくまで、「ファッション」ね〜(笑)。

 

 毎度、こんな作品しか書けないのは、本人、まったく勉強していなくて、人の小説も読んでなくて、しかも、外部と接触を断っている、まつり上げられて特別の場所にいるからではないかと思われます(合掌)。いくら億万長者でも、ビル・ゲイツなどは、こんなことはまったくないのですが。

 

 一般読者のシュミにはなんとも言えないけど、こんな小説を絶賛「しなければならない」評論家諸氏には、心底ご同情申し上げます。

 

 


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【詩】「失われた時を求めて」 [詩]

「失われた時を求めて」


(A la recherche du temps perdu)


 ベケットは二回、ナボコフは、おそらくそれより多く、通読したと思われる、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』は、やはり読み通した人は少なく、よって、いいかげんなことを言っても、誰も「それはちがう」とは言えない。


ナボコフによれば、英訳で四千ページ、約百五十万語、登場人物は二百人以上。扱われている時代は、一八四〇年から一九一五年。執筆にかけられた時間は、一九〇六年年から一九一二年。その後、一九二二年に死ぬまで改筆と訂正をくりかえした。


時間の長さは、「遅筆」をイメージさせるが、私の計算によると、ものすごい速さと分量で、日々の執筆をこなし、それを死ぬまで続けた。


失われたのは、「話者」の時間ではなく、書き手自身の時間である。


ナボコフ曰く、


 「全巻これ宝探しであって、宝物は時間であり、隠し場所は過去である」(『ヨーロッパ文学講義』)


私はこの作品を、犬の散歩時に、フランスの俳優、アンドレ・ドュサルディエの朗読のCDを、iPodに入れて聴いている。


いまだ「スワン家」のあたりをさまよっている。


ドュサルディエの朗読は淀みなく、(おそらくは編集の働きであろうが)一語としてひっかからない。


私の野心は、通読どころか、この作品すべてを暗記することである。


稗田阿礼が、帝紀と旧辞を暗記したように。あるいは、


ボルヘスの、「記憶の人・フネス」のように。あるいは、


ホメロスのように。

 

たいていの文章は、散歩道の闇のなかに消え去ってしまうのだが、なかに、ひっかかってくる箇所がある。いつも「はじめ」から聞き直すのだが、ひっかかる場所はいつもいっしょだ。それは、


ドュサルディエの静かな声が半ば興奮したように高まり、「話者」の祖父を演じる場面だ、


「マチルド! おまえの夫がウィスキーを待ってるんだぞ! なにしてるんだ!」


 そして祖母は悲しそうに……


 と、「話者」は語る。


 優雅な貴族社会のマッチョ性の露出。


「話者」は祖母の味方だ。


そして、作者は、そのような女性の地位を受け入れることはせず、


解放した。


愛とは、主従である、


ということを、よく知っていた。


だから、女は愛さなかった。


わたくしは、プルーストの「阿礼」となって、この物語を全文暗記し、二十一世紀に再構成したいと思う。

 

 


 


 


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【詩】「存在の耐えられない軽さ」 [詩]

「存在の耐えれない軽さ」


(L'Insoutenable legerete de l'etre)


 

 そして徳川幕府は、死臭を管理する方法についてお隣の中国から学んだ。以後代々、死臭が管理された。それはおもに社寺によって管理され、死ぬことも生きることも個人の自由にはならなかった。自由とは、そう、幻の国の秘薬のようなものだった。ここに、本居宣長は生まれ、契沖、賀茂真淵に師事した。すなわち、源氏や古事記や論語の読み方について。そしてしだいに、「存在」について目覚めたのだった。


二十一世紀のお人は、ソメイヨシノを愛するか。育てるのに簡単なプラスチックのような花だ。私が愛した花は、ヤマザクラ、濃い紫の花だ。育てるには、ちょいと工夫がいってな。手を患わせるのだ。若く美しい女のようにな。


宣長さん、自分の墓について、こと細かに指示したとか。おおやけの墓と、わたくしの墓と。そしてプライベートの墓は、海の見える場所で、そばに山桜を植えてくれと……。そは……。

 


そぞろ歩きは軟派でも〜♪ こころにゃ、硬派のちがかおる〜♪ 千賀かおるノノそのヒト誰ですか?


 


そして二十四時間、あのマチあとに〜♪


思いつめてた気持ちをもろくターンさせたのですか?


よぞらってさー、五木ひろしでしょー? いや、「最高密度の青空」なのかな〜?


さあ……それはちょっと……だいたい密度ってなんです?


「粗密の度合い」でしょう、「単位堆積あたりの量」とか。


それだと、この「最高密度」は、なにが? 最高密度なのか?という、問題が残るわな。


なにがって、つまり、すべての色は太陽光なんよ、太陽の光のうち、波長の短いのが、空中の粒子にぶつかって反射する、それが青色、太陽が傾き、長い波長の赤い光が見える、これが夕焼け。


すると、夜空はノノ太陽の光は見えないけど、宇宙には太陽より明るい星がゴマンとあって、それらの光が届いてもいるんです。


それらは「背景放射」と呼ばれ、最も有名なものは、マイクロ波宇宙背景放射で、高音のプラズマが宇宙膨張に伴って冷えて中性化した時代、


宇宙が始まって約四十万年後の世界を直接見ているんです。


だから、「夜空は最高密度の青色」というのは、徳川幕府の陰謀ということになりますね。民にそのように信じさせれば操ることができるとノノおそらく林羅山あたりが吹聴したのではないですか。


だからおれは、花狂いを演じ、和歌をゴマンと詠んだ。おれがほんとうに考えていることを悟られぬために。


宇宙は、はじまらなかった──。


夜空の光こそ、自由のあかし。


自由とは、宇宙の麻薬。いまだそれを合法化した国家はない。


言葉という酒に酔ったふりして、おれは死臭に染まったこの時代の死臭を拭き取り、宇宙さまにお返しするつもりさ。


はじまりはなく、おわりもない。


ないものもない。


夜空は、最高機密のご開帳だ(笑)。

 

 


 


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『愚行録』──見ることの快楽(★★★★★) [映画レビュー]

『愚行録』(石川慶監督、2016年)


 さすがポランスキーが出た「ポーランド国立映画大学」で学んだことを思わせる、日本的スタイルからは完全に脱している作風である。そういう作品のなかでは、妻夫木聡がファスベンダーに見えてくる。事実、妻夫木は欧米俳優なみの集中力(本作では、ひさびさに見る、精神科医役の平田満をはじめ、ほとんどの俳優が高い集中力を発揮している。つまり表情が揺るがない)を見せている。妹役の満島ひかりも、同様の集中力を発揮、こちらも、キャリー・マリガンなみの演技力を見せる。事実、セックス中毒の兄をファスベンダーは演じ、その厄介者の妹を、マリガンが演じた。しかし、兄妹といえど、欧米ではどこまでも個人で、悩みも個人の範囲にとどまる。ところが、本作は、問題が、日本特有の陰湿さをはらんで、学校カースト、就活、飲み会、幼児虐待、などが、リアルな会話によって炙り出されていく。


 作中人物が「日本は格差社会じゃなくて階級社会だ」と言うが、欧米の階級社会はこんなものではないだろう。歴史にがんじがらめにされたそれは、もっと根源的で絶望的なものだろう。


 一部のレビュアーが物語のできに不満を訴えていたが、これは、映画の疵ではなく、原作が悪いのだろう。ミステリーとしてはありきたりな常套である。一家惨殺事件の犯人は、その一家に虐げられた人間──。いかに虐げられたか。吉田修一原作の『怒り』も、似たような物語であるが、ただ、あまり犯人の側に立っていない。事件を起こしたのは、ある人物の瞬時の「怒り」であったと主張している。本作は、「愚行」だったのだ。しかも「録」。そういう愚行を集めた記録? これは誰の視点だろう? 当然、妻夫木の視点だと思われる。そういう自分をどこか客観視しているような醒めた感覚が、「週刊誌記者」である妻夫木を貫いている。私ははじめて、この役者がよいと思った。


 暗い作品だが、ハイスピードカメラでとらえられた、なにげないバスの乗客たちのスローモーションの表情といい、老女に席を譲るように、ほかの乗客から叱られた妻夫木が、いやいや立ち上がってからバスの床に倒れ、実は脚が不自由だったと見せつけ、叱った男にばつの悪さを味わわせ、バスを降りてからも、しばらく不自由な歩行を続け、叱った男の気まずい表情をガラス越しにもう一度見せる。そうかこの主人公は脚が悪いのかと思った瞬間、正常な歩行に戻るシーンは、『ユージュアルサスペクツ』のケヴィン・スペーシーを思わせるが、そんなのっけから、見ることの快感に引きずり込まれ、いつまでも見ていたいと思わせる作品である。

 

 



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【詩】「難民」 [詩]

「難民」

 


「85万人の難民と聞くと大変な数に思えるかもしれない。たしかに歴史的に見ればそうだろう。だがそれは、約5億人のEU人口の0.2%にすぎない。もし(この「もし」が問題なのだが)適切に対処すれば、世界一豊かな大陸に吸収できる数だ。難民危機のために社会的インフラが破綻寸前に陥っている国があるが、それはヨーロッパの国ではない。その最たる例はレバノンだ。レバノンは人口450万人ほどの小国だが、2015年の時点で、約120万人ものシリア難民を受け入れている。つまりレバノンに住む人の5人に1人が、シリア難民なのだ。この数字に、ヨーロッパの指導者たちは恥じ入るべきだろう」


「中東から来る人向けに大規模な第三国定住システムを立ち上げて、急ピッチで動かしていれば、多くの人はそれを信じて、危険な海の旅に出ずに中東で自分の番を待っただろう。そうすれば、ヨーロッパへの難民流入はもっと秩序だてて管理できたはずだ。トルコ政府も、ヨーロッパに出発しようとする人たちに労働許可を与えるなどして、第三国定住の順番が回ってくるのをトルコで待つように説得したかもしれない」(『ガーディアン』紙、移民専門ジャーナリスト、パトリック・キングズレー著、藤原朝子訳『シリア難民』より)


トルコの町、イズミル、それはもしかしたら、ホメロスのふるさとかもしれない。その町のほとんどの商店のショーウインドウを飾る、救命胴衣。AIのような顔した子どものマネキンが、オレンジ色のそれを見つけている。だが、その多くが偽物だ。


もしかして、あの少年は、偽物の救命胴衣を付けていたのかもしれない。あの、背中を向けた遺体となって海岸に打ち上げられていた少年。


あれも、もしかして、沿岸警察が、その偽物の救命胴衣を取り去り、背中を向けて、写真撮影したのかもしれない。


家を壊された人々が、天井もないゴムボートにぎゅうぎゅう詰めで乗り、ギリシアを目ざす。


かつては、ギリシアから収奪にやってきたというのに。そう、3000年くらい前の話か。


日に灼けたオデュッセウスの背中は、オリーブ油で光っている。粗末な筏で、10年ばかりさまよった。3000年前の10年が長いか短いか。それはトルコ出身のホメロスが作った話。彼から800年ほど前の時代のオハナシ。


30年前の南フランスで、地中海に足を浸した私の記憶では、9月初めの地中海の水は身を切るように冷たかった──。


そしてアエネイアスは、滅びたトロイアから、筏で、ローマを目ざす。そのときはローマという名前であったかどうか。新しい国の「父」となる。


ウェルギリウスはその一部始終を詩で表す。そして、ダンテを天上へと導く──。


ここに、詩人の仕事がふたたびめぐって来たように思う。光る海の水の上に、ひとの生を刻むために。

 

 


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『王様のためのホログラム』──ドイツ人監督の徹底した「中東転職モノ」(★★★★★) [映画レビュー]

『王様のためのホログラム』(トム・ティクヴァ監督、2016年、原題『A HOLOGRAM FOR THE KING』)


 


まず、本作は、監督のトム・ティクヴァを知らないと、どういう映画かわからなくなって、「なんでサウジアラビアなのー?」「トム・ハンクスなんでこんな映画出たのー?」「ただのオッサンの転職ものだけじゃん」てなお寒い感想になる。ティクヴァ監督が過去にどういう作品を監督したか──。


 


 まず、根性女子が「ただ走るだけ」の映画、『ラン・ローラ・ラン』。しかし、走り抜くことによって、ついに事件を解決する。これは評判になったので、サントラも持っている。この時のローラ役の女優は、のちに、マット・デーモンの『ボーン』シリーズで、ボーンの恋人役として登場。


 


 つぎに私の大好きな映画、『ヘヴン』、それこそ重信房子のようなテロリストの女、ケイト・ブランシェットが、イタリアで爆破事件を起こし、看守のイタリア青年と恋に落ちる。そのイタリア青年は、デビュー当時の風間杜夫のように、素人っぽさを漂わせたウブそのものを演じきっている、アメリカの曲者俳優、ジョヴァンニ・リビシ。その後のリビシの出た映画を見れば、とても同じ人間とは思えない(笑)。題名からもダンテ『神曲』をもじっているのか。至上の愛を描いている。


 


 続いて『ザ・バンクス』。なにかと大味のクライブ・オーエンであるが、この映画ではかっこいい。インターポルを演じて、今はあたりまえだが、当時は「最先端の犯罪」、銀行の悪行を追う。かてて加えて、FBIだったかなー? ナオミ・ワッツ。この映画にも痺れた。


 


 そして、本作にも、ホログラムプレゼンの、「ホログラム姿」として登場している、ベン・ウィショーを世に出した、『パヒューム』。半裸のベン・ウィショーは得たいの知れないジプシー青年そのものだった。その後の、発明オタク青年「M」になるとは想像もつかない。考えてみれば、「どんな映画かわからない」映画だ(笑)。


 


 と、まあ、そういう監督が、「あえて」、今のサウジアラビアの「日常」=「現状」を、フィクション「でしか」表し得ない「事実」を提出しているのが本作である。公開処刑さえ「日常」の姿として(シーンはない)「語られる」。CGかも知れないが、「メッカ」もつぶさに写される。戦争モノ、軍事モノでは、ここまで細やかにアラブを描くことはできなかっただろう。


 


 そう、自動車会社の取締役をクビになったオッサンのトム・ハンクスが、(キャリアを生かして)再就職した会社から、サウジにホログラムを売りに飛ばされる。部下三人とともに。異文化ショックもさることながら、それどころではない「警察国家」で、職場環境を変え、現地人の友人を持ち、かなりイイセンまで改善していく。だが、結局、ホログラムは売れなかった。というのも、「もっと安い中国製」が売れてしまったから。それでも、トムは、現地で、自分の背中の脂肪腫(こういうディテールがいかにもトム・ティクバなのだ)を手術してくれた女医と親しくなる。監視国家を逆手にとった、デートがすばらしい。


 


 サウジでは、いろいろな国から働きに来ていることがよくわかり、トムはデンマーク人女性にも言い寄られる。さすが北欧の、大使館でのハチャメチャパーティーも「すっぱ抜かれる」(笑)。


 


 ドイツ人でなければできない徹底した視点の入った、「オッサンの中東転職モノ」なんです(笑)。


 


 


 


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小谷野敦著『芥川賞の偏差値』──おもしろい〜(★★★★★) [Book]

『芥川賞の偏差知』(小谷野敦著、 2017年2月13日、二見書房刊)


 小谷野敦氏の本は二度と買わないと思ったが、恩田陸の直木賞作品(題名覚える気ない)の近くに本書が積まれていて(@福岡ジュンク堂)、つい、こちらを買い物カゴに入れてしまった私である(笑)。


 「まえがき」がちょっとした「文壇史」(芥川賞から始まっているので、伊藤整の『日本文壇史』というわけにはいかないが、それを彷彿とさせないこともない)になっていて、こんなにリキを入れて「まえがき」を書くのは、小谷野氏のほかには、ミシェル・フーコーをおいては他に知らない(笑)。まー、このヒトはなんでもリキが入ってしまうのである。なんでも真剣なのである。こういうヒトは、今の時代はまれだから、私は評価している。シュミはまったく合わないが。ほかのレビュアーが、「偏差知と言いながら、まったくの主観である」と書いているが、だいたい、偏差知だって、客観的な科学データとは言い難いし、本書の場合は、ただの「ネーミング」、「イメージです」でしょう。


 文学の評価など、主観以外にあり得ない。それは芥川賞の選考にだって言える。だいたいきょうび、ろくな選考委員がいないのに、その選考委員が選ぶものに、たとえ、結果として「おもしろいー」と小谷野氏が言っても(「コンビニ人間」とか。あたしゃ、全然おもしろくなかったが)、それはたまたまであって、まるで信頼できるものではない。それにつけても、下世話なことであるが、ビンボー人のあしゃ、「選考委員料」(謝礼?)が気になる(笑)。


 私の記憶としては、村上龍氏の『限りなく透明に近いブルー』が選ばれた時、選考委員の永井龍男が、「こんなものが選ばれるなら、私はやめる!」と抗議して辞任したと思いますが、どうですか。しかし、この作品のもとの題名が、「クリトリスにバターを」という題名だったとはつゆ知らず。そうでしたか。しかし、石原慎太郎「太陽の季節」の、勃起したペニスで襖を破るなんてアホなシーンは、その後誰も書いてないでしょー(笑)。そして、今、「夫のちんぼが入らない」てな題名のエッセイ(?)が売れているらしいから、ま、時代はどんどん品性を失ってますナ。選考委員に品性が見られたのは、滝井孝作が選考委員をしていた時代で、この人が「いい」と言えば、たいていそれに決まってしまったぐらい力があったとか。


 なるほど、小谷野氏の主観ではあるが、ほかのレビュアーの方が書かれているように、芥川賞のレフェランスにはなるし、つい最近の山下澄人作品までカヴァーしているのは、さすがである。それに、松本清張「ある『小倉日記』伝」」には、まあまあの偏差知(64)が与えられているし、これらの作品を全部読んだなんて、まさに狂気の沙汰である(笑)。


 そうそう、当の小谷野氏自身も、「候補作家」であることは、どこにも書いていない(?)、意外な奥ゆかしさもあり、今回は、ほめ倒してみまちた(爆)。


 あ、今回の版元の二見書房は、もともとはポルノが得意の出版社で、ときどきまともな本も出していたところです。澁澤龍彦訳『O嬢の物語』もここから出ています。私の知るかぎり(って、小谷野氏ではないので、よくは知りませんが(笑))最高のポルノ小説だと思います。村上龍や石原慎太郎も、まあ、ここまで書いてほしかったですね。

 

 


芥川賞の偏差値

芥川賞の偏差値

  • 作者: 小谷野 敦
  • 出版社/メーカー: 二見書房
  • 発売日: 2017/02/13
  • メディア: 単行本




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『たかが世界の終わり』──ウリエルの美を堪能(★★★★★) [映画レビュー]

『たかが世界の終わり』(グザヴィエ・ドラン監督、2016年、原題『JUSTE LA FIN DU MONDE/IT'S ONLY THE END OF THE WORLD』)


 


 かつて、映画評論家の淀川長治は、アメリカ滞在中、いやいや無名の監督の作品を見せられ、やがて、それは感心に変わっていった。「こいつ、映画がわかってる」──。いうまでもなく、それは、スピルバーグの『激突』であった。


 グザヴィエ・ドランの前作『マミー』には辛い点をつけた私だが、今回この作品を観て、淀川センセイと同じ言葉が口をついて出た。「こいつ、映画がわかってる」。


 説明なし、進展なし、明確な物語なし、しかし、時間だけはそこにあって、家族を演じる俳優たちは、好き勝手な言葉を投げつけ合うのみ。そして監督は、彼らの視線をとらえる。ショットは、おもに胸から上、首から上のみも多い。その中心には、美しいギャスパー・ウリエルがおり、マリオン・コティアールがいる。彼らは、まるで恋人同士のように視線を交わらせるが、完全に恋愛というわけではない。コティアールは、兄嫁であり、奥ゆかしい、思いやりも慎みもある性格である。一方、作家が職業であり、十二年ぶりに家に戻ってきたウリエルはゲイである。ウリエルは、前作『サンローラン』でもゲイを演じているが、美しい男の宿命かもしれない(笑)。


 まー、私としては、ウリエルの美しさを堪能しましたわ〜(笑)。彼の哀しみ、彼の後悔、彼の夢想、彼の躊躇、彼の孤独、彼の恐怖、そして、彼の絶望……。すべてはまなざしで演じていく。そして、展開するのは、毎度、おフランス式個人主義の罵り合い。


 ハリウッド映画を見慣れた目は、欲求不満を感じるかもしれない。しかし、これこそ、生なのだ。若きスピルバーグが、ただカーチェイスのみを描いてみせたように、ドランも「罵り合い」のみを描いて見せる。その時間。


 堪能するか、寝落ちするか、それはあなたのココロザシしだい。


 ぐにゃぐにゃの感情のもつれを、テンポのいい渇いた音楽がきれいに包んであなたに差し出す。


 ドランは無名の役者たちより、スターたちを得てドラマ作りをした方が格段に光っている。

 

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