So-net無料ブログ作成

『T2 トレインスポッティング 』──懲りない面々の脱青春映画……2!(★★★★★) [映画レビュー]

『T2 トレインスポッティング』(ダニー・ボイル監督、2017年、原題『T2 TRAINSPOTTING』)

 

 吉田健一によれば、ヨーロッパ人にとってのヨーロッパとは、故郷のなじんだ風景以外のなにものでもないそうで、それは当然、それぞれに違う。それを思い出させてくれる、スコットランドはエンジンバラを故郷に持つ、ワルガキ4人。コネなし、カネなし、学歴なしで、「選べる人生」なんかなくて、なんとなく、ドラッグにハマった彼らの、人生が、それほど楽しいわけもない──。前作は、ドラッグ中毒の画像──便器の中からなにか流れ出てくるような──が印象的だった。坊主で童顔のガキンチョ、ユアン・マクレガーはその後、りっぱなスターになった……でも、童顔が相変わらずで、前作の表情のまま出てくるのは、さすがヨーロッパ人だ。金を持ち逃げして、オランダに逃亡、そこで、結婚し、まともな人生を始めたが……、やはり躓いて、故郷のエジンバラに戻ってみれば、「エジンバラにようこそ!」と観光ビラを配ってるオネーチャンの出身地を聞けば、東欧のどっかの国だった(笑)。

 20年経っても、昔の仲間は相変わらず、全然まっとうになっていなかった──(笑)。しかし、今回、へたれのスパッドに文才があることがわかり、一編は、スパッドの語りのなかに収束する。ステレオタイプの青春モノに、すっぽり収まった、『アメリカン・グラフィティ』という映画があったが、こちらは、『スコティッシュ・グラフィティ』で、しかも、まっとうな物語にはどうにも収まらない。脱構築し続けてゆくことが青春か。とまあ、「脱構築」なる言葉も、実は、アメリカ人が考えたとか。

 ダニー・ボイルの作品は、音楽がすばらしい。ユアン・マクレガーが20年ぶりに戻った自分の部屋で、前作の曲を「レコード」で、かけようとして、盤に針を置くが、すぐにやめる。いろいろあって、最後に「やっぱり」かける。音楽に合わせ、ユアンは、ゆっくり踊り出す……ジ・エンド。すばらしい幕切れ。当然、サントラは、iTune Store で即買いで、毎日犬の散歩はT2な日々だ(爆)。



【訳詩】ルネ・シャール「形式的な共有」26 [訳詩]


Rene Char "Partage formel" 26



Mourir, ce n'est jamais que contraindre sa conscience, au moment même où elle s'abolit, à prendre congé de quelques quartiers physiques actifs ou somnolents d'un corps qui nous fut passablement étranger puisque sa connaissance ne nous vint qu'au travers d'expédients mesquins et sporadiques. Gros bours sans grâce au brouhaha duquel s'employaient des habitants modérés... Et au-dessus de cet atroce hermétisme s'élançait une colonne d'ombre à face voûtée, endolorie et à demi aveugle, de loin en loin____ô bonheur____scalpée par la foudre.

 

****

 

ルネ・シャール『形式的な共有』

 

死ぬこと、それは、意識がまさに自らを廃止しようとするとき、われわれにとって、ほどほどに未知であった、というのは、肉体についての知識は、われわれには卑小で散発的な窮余の策を通してしかやって来ないのだから、そういった肉体が活動しているか眠っているかしているある場所について、休暇を取るよう意識を強いることではない。がやがやとうるさい、優雅さを欠いた大きな町、その音は節度ある住人たちが夢中になってたてているのだが……そして、その恐ろしい錬金術の上に、アーチ型に反った、心を痛めた、そして半ば盲目の、人影の柱がそそり立っていた、ときどき──おお、なんという幸福──その影は、雷に頭皮を剥がされるのだ。

 

 

 






『午後8時の訪問者 』──絶対的善人(★★★★★) [映画レビュー]

『午後8時の訪問者』(ジャン=ピエール・ダルデンヌリュック・ダルデンヌ監督、2016年、原題『 LA FILLE INCONNUE/THE UNKNOWN GIRL』)


 

 ダルデンヌ兄弟の映画には、悪人は出てこない。物語のなかで、「悪役」側にまわる人々がいるが、それは人間的な弱さゆえに、「善」でいられないのだ。そして、「絶対的善人」が登場するが、それは、普通の映画ではまれな、まして、人が殺されるような状況の映画では、決して存在しないような人物である。


 事実、本作でも、実は、殺人事件はない。というのも、どうも、「死んでいた少女」は、自ら足を滑らせ川に落ちたようなのだ。誰かから逃げていたのだが、この誰かが、一応「犯人」ということになるが、その「犯人」さえ、殺意はなく、実際殺してもいない。その「犯人」は、ある少年の父親で、少女が娼婦と知って、わざわざ車を降りて追いかけたのだ。なぜ? ただ「客」になりたかったのだろう。その男の、ティーンエージャーの入り口にいる年齢と見える息子は、病弱で、医院の待合室で「てんかん」のような発作を起こす。医師のジェニー(女)は適切に処理する。研修医のジュリアン(男)は、指導のジェニーに言われた処置をすぐにすることができず、ただひきつけを起こす少年を、おろおろと見下ろすだけだった(それには、少年時に虐待されたトラウマがあったことを、のちになって彼はジェニーに告白する)。ジュリアンはなにかとジェニーに意見される、できの悪い研修生のようだ。その夜、ちょうど診療時間が終わった午後8時、診療所のドアベルが鳴るが、出ようとするジュリアンに対して、「もう診療時間は終わっているから」と、ジェニーは、ドアを開けることを禁じる。


 翌日、刑事が訪ねてきて、近くの川辺で、少女の遺体が発見されたと知らされ、防犯カメラの写真を見せられる。そう、前日、午後8時にドアホンを押すのが、医院の防犯カメラに写っていた人物だ。


 その人物は、アフリカ系の少女だった──。そこから、さまざまな社会的問題があぶり出される。ダルデンヌ兄弟の目的はここにある。ひとつの「遺体」を通して、その「関係者」たちを追っていく。そのひとりが、女医のジェニーで、彼女は、ドアを開けなかった罪悪感から、遺体の少女の家族を捜したり、「無縁仏」(笑、仏教とはかぎらないが)用の墓地を借りたりする。自分には医師の資格はないと田舎へ帰ったジュリアンの前途を断ってしまったとも感じ、彼をも追っていく。そのほか、田舎町の医療事情に私欲を抑えて貢献しようと、大病院の医師への道をコース変えして、苦労の多い診療所の老医師の跡を継ぐ。


 ジェニーは絶対的善人である。その真剣なまなざしを、「天才」と言われる、アデル・エネルが淡々と演じる。不良どもに脅されても、まったく動じないわけではないが、かろうじてでも耐え抜く。華やかさとも、浮いた話とも無縁で、今与えられた状況に立ち向かっていく。やがて、彼女の周囲の、悪の側に行きそうな弱い人間たちも、それとなくほだされていく。だがそこに、ハリウッド映画のヒロインのようなかっこよさも、カタルシスもない。場所がフランスにしろベルギーにしろ、要するにヨーロッパの田舎町で、アフリカ系の人々の「底辺」へと堕ちざる得ない状況をさりげなく提示し、「善」の必要性を小さな声で主張する。音楽にも五つ星をつけたものの、音楽はない……しかし、ジェニーのためのオリジナルソングが存在する。アデル・エネルは、ぶっきらぼうなセリフと真摯なまなざしと無垢な表情で、女優であることを完全に忘れさせる。

 

 



『ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命』──ジャッキーは「オナシス」として記憶される(★★) [映画レビュー]

『ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命』(パブロ・ラライン監督、 2016年、原題『JACKIE』)


  本作は、ケネディ大統領の、ジャクリーヌ夫人が、大統領が暗殺された日から4日間の、いかに大統領を歴史に残るように、とくに、葬式を「アレンジ」するのに奔走する姿が、夫を失った悲しみと、暗殺というショックのなかでのがんばりとして描かれているが、もともとこんな「事実」(?)があろうがなかろうが、ジョン・F・ケネディは歴史に残っただろうし、誰も、メディアが映し出した葬儀のことなど忘れてしまうし、世代も交代していくから、こんな「演出」などはどうでもいいことなのである。それをさも、意味があるように描いているのは、チリのピノチェト独裁政権への、反信任キャンペーンを請け負った、広告マンの、骨太な活躍を、ガエル・ガルシア・ベルナル主演で描いた前作『NO』も同じことである。こういう「些末な」、事実かどうか知らないが、それはどちらでもよいような事柄に、さも意味があるように焦点を当てているのは、この監督が、なにか大きな勘違いをしているからのようにも思える。


 だいたい、本作の主演のナタリー・ポートマンも、ガエル・ガルシア・ベルナルも、顔は美しいが背が低いという共通点があり、それが、歴史を描くにはなにかもの足りない身体となって現れる。推定身長、ポートマン→158センチ、ベルナル→163センチといったところだろうか。トム・クルーズも同様かもしれないが、クルーズはそれを、オーラのようなものでカバーし、かつ、演出が、「周囲の人物」を、彼の身長にあった、つまり、彼を小さく見せないような俳優陣を選び配していると思われる。


 それをおいても、「ジャッキー」という人物には、人はそれほど共感しないようにも思われる。のちに大富豪のオナシスと再婚し、ジャクリーヌ・オナシスという名で、人々の記憶に留められている女には。一方、ジョン・F・ケネディも、アメリカの歴史には珍しく、左翼的に活躍した人物であるが、どうしても、マリリン・モンローの影がちらつく。


 彼の弟のロバート・ケネディ役の、ピーター・サースガードは、よく演じていたと思うが、当のジョン・F・ケネディが、完全なる脇として、「ジャッキー」のそばに影のように寄り添っているが、こちらは、セリフはほとんどなく、顔は「そっくりさん」であるが、日本人の私には、どうも林家三平(今の三平の父の「どーもすいやせ〜ん」の方)に見えてしょうがなかった(爆)。


 


 


大岡信を悼む [文学]

【大岡信を悼む】


拙詩集『今はもう誰も杉村春子など思い出さない』より


「わが夜の詩人たち」より


「大岡信」


昔同人誌の同人のひとりに、「大岡信の家に遊びに行きませんか?」と言われた。自分が何者でもないのに、会いにいくのはどんなものかと思って断った。しかし、大岡信と口を聞いたことはある。早稲田小劇場の利賀村の芝居で、招待客は列を作っていて、私は熱烈なファンで会員だったので、その招待客のすぐ後ろぐらいの番号だった。「あ、大岡信だ」と思ったが、番号を聞くことにした。「すみません、何番ですか?」と言って、自分の番号札を見せた。大岡信はそれをのぞき込み、「×番……ぼくの後ろだ」と言ってくれた。さっぱりとしたよい人だと思った。私は大岡信を愛読していた。


*****


今も鮮やかに思い出すのは、半袖の、白のサファリジャケット。白いスーツの、哲学者、中村雄二郎氏と、なにからごそごそ耳打ち話をしていた。鮮やかな、利賀村の森の中の劇場の敷地で。


ちょうど氏の「著作集」を、本棚の「奥の院」(リビングに作り付けの、扉付のめったに開けない本棚)に移動したところだった。エリオット論を書こう思っていたが、急遽、大岡信論に差し替えるか。

 

 


四月は残酷な月 [訳詩]

The West Land(1922) T.S.Eliot


 

 Ⅰ. The Burial of the dead


April is the cruellest month, breeding

Lilacs out of the dead land, mixing

Memory and desire, stirring

Dull roots with spring rain.


 


「荒れ地」 T.S.エリオット

 

1、死者の埋葬


四月は最も残酷な月、死んだ土地から

リラを生やさせ、記憶と欲望を

かき混ぜ、しなびた根っこを

春の雨でかき回す。

 

 

 



『ムーンライト』──歴史初の繊細さを表現した黒人映画(★★★★★) [映画レビュー]

『ムーンライト』(バリー・ジェンキンズ監督、 2016年、原題『MOONLIGHT』)

 

 確かに日本でも、都会では外国人(外形が明らかに違う、アジア系ではない人々)が結構いるが、地方では、日本人ばかりの地域もあると思う。本作の舞台は、マイアミだそうだから、それほど田舎でもないと思うが、とにかく本作には黒人しか出てこない。これを「黒人コミュニティ」と取るのもよいが、本作が戯曲だったと知って、あるいは、映画化にあたり、「演出」で、全登場人物を黒人にしたのかではないかという考えがめきめきと頭をもたげた。というのも、黒人しかいないのに、主人公のシャロンは、同級生から、「クロ」だの「ニガー」だのと呼ばれ続けている。これは、日本人のコミュティで、イジメの対象の一人を、「ジャップ」だの「イエローモンキー」だの呼ぶことと等しい。自嘲気味の皮肉でそう呼んでいるのかもしれないが、もしかしたら、舞台では、いじめっ子たちは、白人やプエルトリコだったかもしれない──。

 

 さて、全員が黒人映画となると、白人映画をかくも見慣れた日本人たちは、自分たちは白人に属していると、無意識に思い込んでいるフシがあるレビューが多々見られる。

 かつては、南アフリカ共和国で、アパルトヘイト「華やかなりし」頃、日本人は、「名誉白人」なる特別称号をちょうだいして悦に入っていた。まこと、モンキーである(笑)。

 まあ、なんというのかな、白人文化にとっては、白人とカラード(有色人種)にしか分けられないということだ。白人から見たら、日本人だって、本作の映画のように、「異形」の人々である。

 しかし、本作は、『ラビング』のように、黒人差別を扱った映画ではないことは一目瞭然である。なぜなら、差別する白人がどこにもいないからである。

 

 ある(クスリの)売人が登場する。のっけからワルでないことがわかる。ジャンキーたちのたむろする場所にある廃屋を覗いてみると、小学生らしい男の子がいて驚く。やがて、男の子は居場所がなくてそこに来ていることがわかる。少年の母親はヤク中で、彼は同級生から苛められていることがわかる。売人は妻の助けも借りて、その少年を保護し、人生に必要な教訓も与える。少年はおとなしく純真で、それは高校まで維持される。イジメが頂点に達した時、彼は「変身」する。苛酷さが度を超すと、あどけない少年が鬼に変わるのは、『スターウォーズ』のアナキンがダースベーダーに変身するがごとくである。

 かくして、純真な少年は、鬼になり、苛めのリーダーを椅子でぶちのめす。警察に逮捕される。

 その少年は結局、はじめに彼を助けてくれた売人と同じ職業になった。筋肉隆々、フェイク金歯を入れ、首からはゴールドチェーンのネックレス。典型的売人スタイルである。少年、今はおとなの、シャロンは、売人として手下を使いうまくやっていた──。そんなある日、二本の電話がかかってくる。一本は「立ち直り」の施設にいるらしい母親から、もう一本は、かつて苛めグループにはいたが、海岸で心を通わせ、唇を合わせた「ただ一人の友だち」と言えた男から。今は小さなレストランのシェフになっているという。

 売人シャロンは、車を走らせ故郷に帰る。もう一度、自分の生き方を見直すために──。

 

 小学生、高校生、成人と、三人の役者がシャロンを演じているが、どの役者も、これまでのハリウッドの黒人俳優が与えられたようなある意味ステレオタイプの黒人像を超えて、微妙な繊細さを表現していてすばらしい。また、彼の母親役に、イギリス人で、これまでは、『007』のエージェント職員や、『われらが背きし者』では、サエない大学教授役のユアン・マクレガーの、サエてる弁護士の妻など、知的美人の役柄が定着している、ナオミ・ハリスが、あえて、「黒人度」を強調し、「私のようなクズにならないで !」と主人公に泣いて頼む、ヤク中母を熱演している。

 

 


けふの一句@20170401 [俳句]

【けふの一句】


 


旧山廬訪(と)へば大破や辛夷咲く


 


飯田蛇笏(『山廬集』明治参拾九年、十六句のうちの一)


 


****


 


「山廬」は、山にむすんだ庵。蛇笏が住んでいた。辛夷の句は、これ一句だけ。


 


****


 


(こぶしの花はの花びらは6枚、がく片3枚。花の大きさ、6〜10センチ、木の高さ、5〜18メートル。よく似たハクモレンは、花の大きさ、10〜15センチ、木の高さ、10〜15メートル。葉は卵倒形で葉の先が突き出ている)

 

 



メッセージを送る