So-net無料ブログ作成
検索選択

いわゆる「詩人の朗読」について [文学]

私は高校の演劇部と大学の演劇科と、在学中の自分で作った劇団の上演で芝居の稽古を何ヶ月もして、基礎訓練もしましたが、YouTubeで見た「詩人の朗読」がでたらめで基地外的なのに唖然とした。「マイクとテキスト持ったままの朗読」は、客をバカにしている。まず、人前で朗読するなら発声練習をしろ!そして、正面を向く、は、基本中の基本! なかに、テキストを見たまま、下を向いて、ほとんど顔を上げないでごにょごにょの女性詩人には呆れたし、突然早口で叫び続ける男性詩人には、はっきりいって「ひいた」(笑)。119番どころか、110番されないようにご用心!



nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

【詩】「夕顔」 [詩]

「夕顔」

 

夏の風がきみをその女のもとへ運んだ。

むしろ匂つてゐたのは忍冬で、

十七歳のきみは身体を狂はされ、

その不調が生霊の正体だつた。

だが、恋人は植物のやうにはかなくなつた。

それこそ夕顔の精だつた。

二人して小さな価値をつくつてみないか? ほら

ここに、そろひのタトウなど彫つて

でもきみはあへてぼくに問ふ

ぼくたちの美はどこにあるのか。

それはきみの瞳のなかに

これまで喰らつてきた恥と汚辱が光に変わるとき、

   おぼえこそ重かるべき御身のほどなれど、

   ソラリスにては時はあらず。


nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

頽廃についてお話させていただきます [なんとなくエッセイ]

「頽廃についてお話させていただきます」

 

 朝4時過ぎにうちのわんこがお気に入りの樹木が多い公園にいってみると、中年女が、「犬も連れずにひとり」紙パックのジュースにストローをさしたのを手にして、ビニール傘を持って、奥の樹林の方角を見て立っていた。直後、白猫がすばやく通過したところをみると、その猫を見ていたのかもしれない。普通、犬連れでない人にはかかわらないようにしているから、何も言わずに近づくと、その人物が会釈したので、こちらも同じように返す。普通はそれで終わるが、「早いですね」と言葉をかけてきた。犬の散歩はどんな時間でもありうる。しかし、普通の人間が単独で早朝の公園(ベンチがひとつあるだけの傾斜になった樹林)で佇むのもひとにとやかく言われる筋合いはないかも知れない。

 この女は以前にも同時刻か、真夜中かに見かけた記憶がある。その時はものを言わなかった。はじめは、野良猫に餌を持ってくる、猫オバサンかな?と思ったが、そうでもないようだった。

 服装は、短時間に素早く観察したところ、グレーの上着様のものをはおっていたが、中の白いTシャツらしきものは薄汚れたような白で、乳首が浮いて見えていた。

 うちのわん太は、不審な人間がいると気分をそこねてその場ではうんこをしなくなるので、わん太はその人物を怪しみながらUターンした。しかし、そこはお気に入りのうんこ場所なので、数メートル行くとまた引き返した。その時には、すでに女の姿は見えず、「おーっほっほ」という声だけ聞こえ、姿は、樹林に目を凝らしてもまったく見えなかった。道路との境に置いてある石(腰かけにもなる)に、たたんだビニール傘が立てかけてあり、わん太は、しきりに、その傘とそのあたりの地面の臭いを嗅いでいる。あやしい、あやしい、あやしい、という感じである。

 たとえば、夫とケンカしたとかで、ひとりでへんな時間に公園に来てみることもあるだろう。しかし、その女はそんな感じでもなかった。ということは、主婦でも、まともな勤め人でもない感じ。水商売風のおしゃれをしているわけでもない。片手に持った紙パックジュースは、「余裕」である。早朝散歩の人はそこには立ち止まっていないだろう。会釈はしても話しかけないだろう。こちらが、「はい」とか「まあ」とか、テキトーにお茶を濁している間に、その女は、「(犬は)女の子ですか?」「かわいい。毛並みがきれい」と、具体的なセリフを一方的に数回吐いた。

 ウィッチ(魔女)のようなミステリアスな感じは皆無。

 

 せいぜい私が勘ぐることができるのは、その女は、いわゆる「ぱんぱん」。言葉は悪いが、その言葉を急に思わせるほど「地に墜ち」しかも「本人は傍目に、まだ気づかれないと、思い込んでいる」。「ぱんぱん」でなければ、「空き巣狙い」。

 

 大変失礼にあたる感想かもしれないが、印象は瞬時にやってくる。常識の出る幕はない。犬がくんくん怪しむように、まさに、動物的勘でしかない。

 その人物は感じが悪い態度はひとつもなかったが、それゆえ、「こんな時間に見知らぬ人間に愛想よくしてる場合かよ?」という一般人のまともな感覚が欠落している。つまり、おのれの頽廃にまったく気づかないか、あるいは気づいても、もう他の態度はあり得ないといった──。そのような頽廃が、わが国を覆っているようでもある。





【詩】「輝く日の宮」 [詩]

「輝く日の宮」

 

【削除】された章に棲むのは

ビッチ? ウィッチ? それとも、

某国首相に名誉博士号を与えた、「もうひとつの北朝鮮」?

継母との契りへと至る章から始まる物語に、

ムーサたちもバツカスの信女たちも、

狂喜乱舞したに違いないその、

喧噪の名残だけとどめて式部と仮に呼ばれる書き手は、

絶世の美男を生むために、そのBirth Motherについて書き出す

いづれの時空にか、地に墜ちていく国家

あまたさぶらひたまひける時に。

サムライの時代の終わりに、

おフランスはパリにて軍隊と工場を視察

後、すばらしき近代国家成立。

あの章を燃やしたのは失敗。と、女流作家はすね毛を剃りつつ




nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

映画『メッセージ』で印象に残った言葉 [映画分析]

non-zero-sum game
 
自分の利益だけで行動すると全体がうまくゆかなくなる。ゆえに、一人一人が他者のことも考えて行動した方が全体もよくなるという考え方。



nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

『スウィート17モンスター』──渋いおとなの男の映画でもある(笑)(★★★★) [映画レビュー]

 『スウィート17モンスター』( ケリー・フレモン・クレイグ監督、2016年、原題『THE EDGE OF SEVENTEEN』)



『トゥルー・グリット』のヘイリー・スタインフェルドはもう20歳の「おとな」。それがちょっと「幼い」役を演じる。『トゥルー・グリット』では、14歳にしてアカデミー賞ノミネートで注目を浴び、「ファッションにすごく興味がある」と言っていたのが印象的で、本作でも、まさに「ぴったり」の、背伸びしすぎないカジュアル(とくにスニーカー!)ファッションが健康的で品がある。肌の露出は、一般的な同年ティーンエージャー、アメリカ娘と比較するに、かなり少ないと思われる。変人こじれ娘の唯一の親友は、顔もスタイルも、ヒロインより「ちょい落ち」はお約束か(笑)? スタインフェルドの方が、背は高いし、スタイルもよく、だんぜんかわいいのであるが、この「凡庸な風貌」の親友が、ヒロインの、イケメン+人柄よしの兄と恋に落ちる。途中、アジア系の同級生男子が出てくるが、大金持ちの子息らしいこの男子もさることながら、ヒロイン、ネイディーンの家にも「プールぐらいはある」。パパは死んでも、中流維持。そんな恵まれた環境での「こじらせ」青春である。こんな幸せな青春が送れる少女たちが、いまのアメリカにいったい何%ぐらいいるのか? それでも、「等身大」のこうしたドラマは人々を癒す。


 しかし、注目は、ママ役の、キーラ・セジウィックである。ケビン・ベーコン(べつに変態ではなく(笑)、素は知的な雰囲気のようです)夫人のこの女優、テレビ・シリーズの『クローザー』で人気。私もAmazonでDVDを買って観た。FBIの凄腕捜査官の淑女が甘い物フェチで、事件解決後、毎回、オフィスの机の引き出しから甘いチョコバーなどを取りだし、一口かじり、「あ~、あ~、うっふ~ん」ともだえる。この意外性がハマる(笑)。ジュリア・ロバーツにもちょい似た風貌。そういうママである。


 そして、きわめつけの先生。ネイディーンの高校の担任の教師。よくあるぼんやり禿げの中年男。しかし、これをウディ・ハレルソンがやるとなると、思わず膝を乗り出す。思えば、スタインフェルドに対抗できるのは、彼だけ。しかも、高校教師という、「最も似合わない」(爆)役。

勝手にハジけて傷ついたネイディーンが、最後の頼みの綱として連絡した教師。ドーナツショップの椅子に座って待つネイディーンを迎えにいく。店を出がけに、「ドーナツは買ったか?」。「ううん」と首を横に振るネイディーン。なにも買わずに店で待っていたのである。教師は「しゃーないな」という顔を一瞬して、ショップのレジ近くに置いてある「寄付の瓶」にお札を突っ込んでから出ていく。いや~おとな! おとなはこうあるべき。そんなハレルソンをもっと見ていたい!ティーンの映画ながら、渋いおとなの男の映画でもある(笑)。


nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

『メッセージ』──ソシュールもびっくり(笑)(★★★★★) [映画レビュー]

『メッセージ』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、2016年、原題『ARRIVAL』)

 

 地球外から「宇宙人」が来た場合、スピルバーグの『未知との遭遇』までは、ひたすら「侵略者」で、いかに戦うかが問題であった。しかし、スピルバーグが、「宇宙人」は、地球人から見たら「異形」なれど、友好の気持ちがあり、コミュニケート可能であることを示した。さらに驚いたことに、過去に死亡したと思われた人々がおおぜい、宇宙船からぞろぞろと戻って来た──。本作は、これとほぼ同一の「物語」を当てている。「未知との遭遇」の場合のコミュニケート手段は、「音階」であった。しかし本作は、そう簡単にはいかず、一流言語学者が、軍から呼び出される。この言語学者を、大きな眼差しが「口ほどにものをいう」、やさしいイメージのエイミー・アダムスが演じている。

 この学者が、実に、ソシュール然とした知性と論理と技術を持っていて、それを駆使して、「未確認飛来生物」とコンタクトするのである。この「未確認飛来生物」の、乗り物(『未知との遭遇』では、すばらしく美しい円盤であったが)、姿、言語の表現方法が、まったくのオリジナルで度肝を抜く。

 そして、やはり『未知との遭遇』のように、身近な死者とも関係していることをほのめかす。そして、なんとなく、時間のとらえ方や映像が、タルコフスキー『惑星ソラリス』も彷彿とさせる。おそらくは、それら、SFの名作へのオマージュでもあるのだろう。

 

 さて、本作の監督、ドゥニ・ヴィルヌーブといえば、『プリズナー』から始まって、『複製された男』、『ボーダーライン』と、たて続けに、意欲作を発表し、それらはすべて観て、いちいちウナらされてきたが、本作はその頂点にあるように思われる。ゆえに、次回作『ブレードランナー2049』も、期待される。しかし、その予告篇を観たかぎりでは、本作の方がすぐれているようにも思われる。なんせ、オリジナル『ブレードランナー』に頼りすぎているような気もするからだ。



nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

宇佐美ゆくえ著『夷隅川』──基礎を踏まえた端正な歌集(★★★★★) [Book]

 『夷隅川』(宇佐美ゆくえ著、 2015年5月、「港の人」刊)



  Facebook友の、お母さまの歌集で、初版は、2015年5月15日、それからほどなくして著者は亡くなられたと聞く。もとよりなんの知識もなく本歌集を読み進むと、新婚時代から子を経て、子供たちが独立し、やがて孫もかなり成長した姿で登場し、一人暮らしに戻り、ケアバスを待つ日々の、心の軌跡のようなものが書きつづられている。きょうびの若い歌人だと、もっとハデな歌が多く、本歌集などは地味のなかに沈んでいくか、見過ごされるようだ。だが、斎藤茂吉は、次のように書いている。



 「檐から短い氷柱が一列に並んでさがつてゐる。それから白い光が滴つゐる。それを一首の短歌にしようと思つた時、ふいと比喩にするいふ思が浮んで、『鬼の子の角ほどの垂氷(たるひ)』と云つた。段々読み返して見るとどうも厭味である。それは鬼の子では余り目立ち過ぎてはいけないのだと思つた。それならば、『山羊の子の角の垂氷一並び』かと思つたが、どうも落付かない。『めす犬の乳首のやう』とも思つたが、どうもいけない。とどのつまり、『ひさしより短か垂氷の一並』といふ平凡な写生にして仕舞つた。比喩の句法で晶子女史は名手であるが、短歌に比喩の句法を用ゐるといふ事は余ほど大きな力を持つ作者でなければ駄目だと思つた。奇抜な比喩などは存外楽なものであるが、短歌では奇抜なほど厭味に陥るやうである。『ごとく』とか『なす』とか『の』の連続とせしめないで、一首を貫いて象徴にまで進むのである」(「童馬漫語」55写生『斎藤茂基地歌論集』岩波文庫、所収)



 そう思えば、ちまたに溢れるいかにも新しき衣装、意匠をまとった歌など、厭味のオンパレードである。



 この歌集の題名を見たとき、すぐに、音の連想から、



     みかの原わきてながるるいづみ川いつ見きとてか恋しかるらむ



 という、百人一首で同じの歌を思い浮かべた。いかにも女性らしい歌であるが、作者は、中納言兼輔である(新古今集所収)。



 本歌集の著者、宇佐美ゆくえにも、そういう心の輝きがあり、それらが収められているのが本歌集である。こんにち、多くの自称、多少「歌人」たちが忘れている基礎がここにある。



     揚水の早や始まりて暁の野を光りつつ水の走れり



 美しいリズムと朝の光が重なって、生きる喜びがそこにある。



     職場への道急ぎつつふりかえる風邪の子ひとり残るわが家を



 一瞬の思いを文字に留めている鮮やかさ。



  雷鳴におびえる園児抱きつつ遠き日の吾子をおもい出しぬ。



 ここには、他人の子と自分の子と、時間差の違う、子供への愛が隔てなくうかがわれる。これを比喩にはできないだろう。



  霜白く勤めに急ぐこの堤きょうも一羽に白鷺にあう



  乙女らは幻のごとく声あげて雪降りいでし橋渡りゆく



 これらは写生の美しさのよく表現された初期作品である。晩年になると、写生ばかりもしていられず、「心理」が介入してくる。それは、時代の変化でもあるだろうし、そういう時代に老年を迎えた者の宿命であるかもしれない。



 飛び跳ねて、これが歌と思い込んでいる自称歌人の方々がは、本歌集を読んで、勉強してほしいと思う。



 



夷隅川

夷隅川

  • 作者: 宇佐美 ゆくえ
  • 出版社/メーカー: 港の人
  • 発売日: 2015/05/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)




 


10年前のケイシー・アフレック [映画レビュー]

10年前に初めて、ケイシー・アフレックを見て、すごいと思った。その記録があった。彼は、その後も、いろいろ注目されながら、「やっと」、大輪の花を咲かせた。ブレない男。

 

*****

Yahoo! 映画より。

 

『ジェシー・ジェームズの暗殺』 (2007)

THE ASSASSINATION OF JESSE JAMES BY THE COWARD ROBERT FORD

監督アンドリュー・ドミニク

 

「ケイシー・アフレックがブラピを食っていた」(★★★★)

山下晴代 さん 2008年1月17日 3時37分 

 

原題は、『臆病ロバート・フォードによるジェシー・ジェームズの暗殺』……なにやら演劇のような題である。もしかしたら、舞台劇であったものかもしれない。

 19世紀アメリカに実在した「人気者の悪党」と、彼を暗殺した手下の、「歴史的な」できごとを、一巻の映画にしたてた。荒涼とした土地で演じられる、冷えた心理劇……。大味で脳天気なアメリカ映画が多いが、たまにはこうした、ていねいな作りの作品もいいだろう。作り手側の心意気はわかる。しかし、惜しむらくは、名作とはいいきれない欠点がいくつかある。

 1、主役の悪党=ブラピが全然魅力的に見えない。

 2、芸術への色気か、作品が長すぎる。

 3、内容を言葉で説明しすぎている。

 

 以上のような欠点はあるが、導入部の、荒涼とした土地に夜汽車が入ってくるシーンはとても美しいことと、「助演」のケイシー・アフレック(ベン・アフレックの弟)が魅力的であることが本作を星三つ域から脱出させている。

 とくにケイシー・アフレックは、本来なら、主役の悪党を暗殺する卑劣な男なのだろうが、困ったことに彼の方が魅力的なのである(笑)。ま〜、ブラピは、トシのせいか(44才だが、34才を演じていた)、アフレック(32才だが、19才を演じていた!)に完全に食われてましたね。アフレックの、バカを装った純な男の複雑さを表現する「視線」の演技は、見るに価する。よって、「妥協の」星四つ!

 

 あ、でも、やはり、「腐ってもブラピ」ということはある。全然魅力的に見えないとはいえ、やはりこの役はブラピが演じたからこそ、荒涼とした土地に観客の視線を集めえたとも言える。

 だからまあ、「妥当の」星四つか。


 


nice!(3)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

『マンチェスター・バイ・ザ・シー』──稀有な俳優、ケイシー・アフレック (★★★★★) [映画レビュー]

『マンチェスター・バイ・シー』(ケネス・ロナーガン監督、2016年、原題『MANCHESTER BY THE SEA』)

 

 予告編で、急死した兄の遺言を預かっている弁護士が、甥の後見人を兄に指名された内容を言ったあと、躊躇を見せている主人公のケイシー・アフレックをなだめ、「あんたの経験は想像を絶する」(からしかたないんだ、そういう態度になるのも)と言う。その場面はかなり短かったが、「想像を絶する」という経験がいったいなんなのか、どきどきした。

 強盗に襲われて一家を惨殺されたとか……。しかし、物語はそういうものものしさは選ばず、確かに酷い出来事ではあるが、ある意味静かな事件であった。主人公の落ち度のため、幼子3人を寝かした2階の部屋の暖炉の火が飛んで(それを防ぐために、普通はカバーのようなものをするらしいが、主人公はそれを忘れて買い物に出た。それは自分が飲むためのビールであり、すでに彼は非常に酔っていたというのは、おおぜいの友だちを返したあとだったから)、家が全焼、1階に寝ていた病気だった妻は、かろうじて外へ脱出。「なかに子どもがいるのよー!」と叫んでも、あえて火の海に彼女を放つ消防士はいない。そこへケイシーが帰って来る。酔いもぶっ飛び、呆然。しかし、なぜか、買い物のレジ袋だけは握りしめたままだ。そういう時はそういうものだ。映画は、そんなディテールを静かに重ねていく──。

 はじめ、事件を知らなくて見ているわけだが、男は兄と船遊びをして家に帰ってくると、妻は病気でベッドで雑誌を読んでいて、彼は次々子どもに挨拶をしていく、一人の女の子、もう一人の女の子、そしてまだ赤ん坊で、ベッドで寝ている男の子と、子だくさんだなーという印象。とりたてて文学シュミがあるとか、インテリというわけでもない、どちかといえば、肉体的な男。そんな男が、三児を一度に無残なしかたで失い、心が壊れる。当然、妻も心が壊れ、二人は別れる──。

 はじめに戻れば、持病の心臓病を持っていた兄の死は、主人公の「想像を絶する」経験を引き出すための伏線のようなものである。彼が後見人となる、父を失った甥も、遠景へと退いていく。ケイシー・アフレックは全身で、ある男がいかに傷ついたかだけを演じる。とくに彼の肩と、目つき。ケイシー・アフレックから厳しい菜食主義者、Vegan(ヴィーガン)という言葉を知った。彼は幼いとき動物を虐待したくないと決心してヴィーガンになったという。その筋金入りのまなざしが、兄のベンとはまったく違う色合いを帯びる。稀有という言葉は、彼のためにこそある。俳優とは、まったく地味な職業である。



nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感
メッセージを送る