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『ベイビー・ドライバー』(今のところ)本年度ベスト1(★★★★★) [映画レビュー]

『ベイビー・ドライバー』(エドガー・ライト監督、 2017年、原題『BABY DRIVER』)

 

 映画作りのコンセプトがまったく違う。まず音楽があり、それに合わせて場面などを作っている。主人公は、通称ベイビーの天才ドライバーだが、ワケありで、犯罪を操るドクこと怪しげな紳士(?)ケヴィン・スペーシーに遣われている。映画の解説には「逃がし屋」。実際はそれほど、「おとな」な感じはしなくて、「ぱしり」という感じだが、一応「フリー」で「案件」ごとに、ドクから電話でオファーされる「状況」しかし──

 オープニングからして普通じゃない雰囲気を漂わせる。三人の男女が銀行強盗をしているのを車の中で待っている(その間、iPodをセットしている場面が映し出されるが、それがちょっとした飾りではなく、大いに本作の「核心」となる)のだが、サングラスをしたその表情さえただものではない感じで、しかも通称通りのベビーフェイスはよくわかって、非常に若い、少年のような感じもする。それが三人の強盗犯たちが走って車に乗り込んでくるや否や、すぐに車を発進させるが、そこからベイビー・ドライバーのセットしていた音楽が始まり、ベイビーの目を見張るようなドライテクニックが展開されて度肝を抜く。

 

 仕事が終わってガレージのようなアジトで金の分担となると、ベイビーはコーヒー四つを買いにやらされる文字通りの「ぱしり」となる。しかし──

 コーヒー四つを紙のトレイに入れて片手で持って通りを行く帰り道も、普通映画とは違って、ベイビーの「舞台」となる。そこでもiPodの音楽を聴きながら(映画では当然、観客と共有されるのだが)、踊るように歩く。それが、音楽担当者と振り付け師を周到に起用した演出の見せ所でもあるだが、これまた目を見張る。

 ベイビーは幼少の頃、口論する両親の車(運転は父親)の後部座席に乗っていて事故に遭い、自分だけが生き残った過去を持つ。ゆえに耳鳴りの障害が残り、それを打ち消すために常に音楽を聴いている。しかし、それには、さらにリアリティがあって、母親は「歌手」であり、音楽好きな両親が彼に、おそらく「初代のiPod」を誕生日のプレゼントとして与えていた。この、アルミのくるくる回すわっぱ(名前ド忘れ)で音楽等を設定する初代iPodを、ベイビーは今でも持っていてときどき取り出す。

 

 そういうディテールは見事に伏線として回収され、かつ、スタイリッシュで、かつ、悪いことはいけないというまっとうな思想で貫かれてもいる。ベイビーは不良でもチンピラでもなく、黒人の養父と暮らす心優しい青年で、同じく、「労働者階級」の、ウエイトレスの娘と、ピュアな恋をする。そのすべてが、今どきのすさんだ世の中に一滴の清涼剤となっている。

 かつ、ベイビーのピュアさを際立たせる、アクの強い悪役に、ケヴィン・スペイシー、ジェイミー・フォックス、両御大を迎え、エドガー・ライト監督独壇場の、皮肉たっぷり、洗練バッチリの作品となっている。



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朝吹亮二著『密室論』 [Book]

朝吹亮二著『密室論』(2017年7月、七月堂刊)

 

1987年から1989年の間に15回に分けて書き継がれた「一篇の長編詩」の復刊である/94ページにわたり行替えのない言葉のつらなりは400字詰め原稿用紙にして110枚程度と思われる。行替えはあるが最初から最後まで切れ目のない小説としてオーストリアの作家トマス・ベルンハルトの作品を思わせるが本作はスラッシュのようなものでたまに区切られているがその区切れもあるページまでいくとまったくなくなってくるがまた現れる/「ではなかった」で始まり「か」で終わる/一応/野村キワオのキワどいエロものよりよほどエロスに関してとことんまで追求しているように思われる/どこを切ってもエロスという血が噴き出し密室をいっぱいにする/その密室はブラックホールなのかどうかだとしたら光も出ることはできない/その絶望の闇のなかで言葉だけがアマテラスなのである/「火の惑星がいきかうおもい放物線で脚がひらかれてゆくふつふつと粥が煮られてゆく脚のあいだのちいさくておおきな突起すっぱくてあまい突起やわらかくてかたい突起それは小骨ではない小骨ではないけれど骨のうえの紅スズメだ紅スズメの木の実だ殻のむけた胡桃だ小骨の女はしなやかに欲情をためこむ水をたたえる鎖骨しずかな海の肋骨ふきあふれ背骨あくまでも硬い恥骨あくまでもうすい恥骨あからさまな視線をためこんで小骨はしなやかに湾曲する沈没した海賊船の竜骨」延々続いていって切りがない(笑)/しかし/リズムはすばらしいスピード感もよい/この詩は1989年7月をもって終わるが同年末私は文芸誌『すばる』に「デビュー作「男はそれをがまんできない」を書くことになる/という「我田引水」になってしまった(笑)/そう/この方とは『現代詩手帖』の「新人特集」でごいっしょしていたのだった/30年後こんなふうに遭遇するとはね/これは「復刊」ではあるが2017年の傑作である/と/記しておかう/もしかしたら『すばる』に発表した拙作4作も傑作かもしれない復刊されないかなあ(笑)/あ/カルヴィーノの掌編「モンテクリスト伯」という作品もちょい思い出した/本詩集を読めば行替えとは反動であるなどという考えも思い浮かぶ/一滴の冬/あ/本書もまたAmazonといふ「三途の川」では扱っておらず(今は扱っているようだが「品切れ中」(苦笑))e-本で購入しました


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荒川洋治著『北山十八間戸』 [Book]

『北山十八間戸』(きたやまじゅうはっけんこ)荒川洋治著(気争社、2016年9月初版、本書は、2016年10月刊の二刷)


 


 


 北山十八間戸とは、鎌倉時代に、奈良に、忍性(にんしょう)という、真言宗系の僧によって作られた、ハンセン病などの重病者(非人、貧者を含む)を保護した施設である。


 本書の帯にあるように、「(表題作他)保元の乱の母子像、竹島問題と李朝の記憶など、現実のなかに隠された新しい〈世界〉を映し出す、精選16編」。


「現代詩作家」による詩集である。他の多くの「詩人」と、自らを分かつため、「現代詩作家」を自称されている。


「他の多くの詩人」には、このような「詩」は書けまい。ここには、ひとつひとつ選ばれた言葉が、垂れ流しでなくある。


 歴史の、見過ごされた時間の、ほんの小さな瞬間さえ逃しはしない。ときに、陰惨な瞬間。おそらく風景にさえなれない風景──。


 


 夜空の枝は


 空の外側にも よく群れて甘くひろがり


 直列していく


 


 (「北山十八間戸」)


 


「夜空の枝」とは、どんな枝なのか?


「空の外側」とは、どこなのか?


「よく群れて」とは、どんな状態なのか?


「甘くひろがり」とは、どんな状態なのか?


「直列」とは、乾電池のつなぎ方でないとしたら、どういう状態なのか? 「直列」しているのは、「夜空の枝」なのだろう。だとしたら、「よく群れて甘くひろがり」かつ「直列している」とは、どういう状態なのか? そのような状態と、真言宗系の、正確には、真言律宗の僧、忍性と、どういう関係にあるのか?


 


これらがほんとうに、「現実のなかに隠された新しい〈世界〉」なのだろうか? 


 


「切られようとして」いる四人の子どもは、保元の乱の登場人物らしい。


 その様子を切々と綴る。しかし、リアリズムの文章ではない。詩である。かなり難解な書法である。帯に説明がなかったら、多くの凡庸な読者にはわからない。


「現代詩作家」の、おそらくは、「現代詩」なのである。


「詩人」ではない。「詩人」はどこにもいない。職業でもなく、「現代詩作家」と自称する矜持。それを持っての作である。こころして読め!


 ……っていう、作品なのかな〜? である(笑)。


 


 しかしここには、たわめた日本語はあっても、想像力は皆無である。地をのたうっていく作風。これが「新しい〈世界〉」だったら、陰惨である。なにしろ、ここには、竹島や李朝はあっても、「日本」しかない。世界が、地球が、宇宙が、日本だけだったら……という世界。たてまつるもよし、驚嘆するもよし。


 しかし、寂しい。おそろしく寂しい。


 


 本書は、Amazonという「三途の川」では扱っていない。e-本で購入しました。ハードカヴァー、スピン付きのりっぱな本である。83ページで、1850円+税。いったい、どんな読者に向けられた本なんでせう? 好奇心の強い私は買いましたが(笑)。


 


 



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奈良美智展@豊田市美術館 [絵画]

奈良美智 Yoshitomo NARA for better or worse @豊田市美術館(2017.7-9.24)

「愛知県が生んだ」(出身は青森だが、愛知県立芸術大学大学院出身で、同校のある長久手とその周辺を「故郷」としている)と言える画家、奈良美智の、いわば「手作り感の残る、部分回顧展」といった趣の展覧会が、豊田市美術館で開かれている。豊橋から豊田へは、私鉄(名鉄)を乗り換え、Ⅰ時間半くらいかかる。

私はこの画家の作品からすぐに思いつくのは、映画にもなっている「ビッグ・アイ」である。あれのパクりかな〜?という感じもしている。しかし、「デザイン」(とあえて言うが)は、ずっと洗練されて、さすが「世界的キャラ」である。同展には、例の女の子の「キャラ」の大きな木像もあった。その「体型」を見ると、ムーミンという感じもする。また、シュールレリズムの便器=泉を思わせる、もっと清潔だが(笑)、そういったオブジェ作品もある。多くは、例の「キャラ」の100号くらいの、アクリル作品である。油彩はなかったように思う。鉛筆、色鉛筆、キャンバスに綿布を貼ったうえにアクリル、など。

「ショップ」にて。Tシャツ、ピンクが微妙でかわいかったが、ブルーもあり、バングラディシュ製、1800円。ぬいぐるみがほしかったが、Sが2700円、Lが4000円もして、買わず。並べられた関連本のなかで、『現代美術のビジネス』などという文庫本のタイトルに目がいった(笑)。

若い時に収集された「レコード」のジャケットや本などが、美しく並べられ、「それがぼくの画集だった」などというコメントも人工的に作られた木の壁かどこかに書かれていたが、あ、そーですか。「この程度」のコレクションは、当時の若者は、している人はしているだろうなーという感じ。

「なにかありげな雰囲気」。これに尽きた(爆)。

「芸術」と「キャラクターもの」の微妙な境目を言っている、「現代美術市場」の成功者という感じもした。

 

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ロッセリーニ『ドイツ零年』 [映画]

『ドイツ零年』(『GERMANIA ANNO ZERO』、ロベルト・ロッセリーニ監督、ロベルト・ロッセリーニ、マックス・コレベット、カルロ・リッツァーニ脚本、 74分、モノクロ、イタリア語、DVD)

 

 1947年、廃虚のベルリン。墓掘りの仕事をしている少年は、いくつだ?と聞かれ、15歳と答えたが、どう見てもそうは見えない。実際は12歳で、「仕事泥棒」と言われそこを追い出される。逃げる途中で、道路に馬が死んで倒れているところに人だかりがしているのを見かけ、近寄るが、大人たちに追い払われる。群衆の一人は馬の首あたりにナイフを入れ肉を切り取ろうとする。少年が「家」(崩れたビルの一角)に帰ると、大家が各家庭の電気使用量を見て、少年の家に「超過している」と告げる。その電気さえ違法で取っているものだ。少年の家では、最もちゃんとした働き手になりそうな兄は、ナチスの兵士だったので、隠れていて、市民としての正当な登録を怠っているので、配給も受けられない。毎日家の中でごろごろしている。姉はガイジンバーで、娼婦まではいかないが、「お相手ガール」として、煙草などのプレゼントをあてにして「働いて」いる。父は悪い病気に冒され咳がひどい。

 少年は小学校元教師と出会うが、彼もナチスの兵士で教職を追われ、ヒトラーの演説レコードを売る闇商売をしていて、少年に手伝わせる。その教師の少年を触る手つきや、教師が出入りしている「館」も、なにやら、「少年愛」の館を暗示させる。

 少年エドムントは、エドムント・メシュケが演じており、おそらく素人の少年なのだろう。その無表情がかえってリアルを感じさせる。

 なにもかもが、少年が生き抜くには難しい世界。彼は、元教師が、「病気で足手まといの父親は死んだ方がいいのだ」という言葉を真に受け、父親に毒入り紅茶を飲ませて殺害する。「先生の言ったとおり、父を殺しました」と元教師に言うと、「そんなことなど言ってない!」と驚く。

 混乱して街をさまよったのち、崩れかけたビルに入り、上から父の葬儀の様子を眺める。そのとき、彼は上着を脱いで、そこから飛び降りる。背中を向けたまま地面に叩きつけられる少年の細い肉体。女性が驚いて走り寄り、少年を抱き起こし、カメラは少年の顔の右半分の一部を映し出す。その顔は変化していないが、少年が死んだことは観客に確実に伝わる──。

 

 ドキュメンタリー・タッチとかネオ・レアリスモなどと言われるが、本作の奇妙な点は、ベルリン市民が、すべてイタリア語をしゃべっているところであり、主役の少年も名前からしてドイツ系と思われるのに、流暢なイタリア語をしゃべっているのである。ここになにか、意味のある意図的な「ねじれ」が込められているのかもしれない。また、そのイタリア語が印象的なのである。

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バルネット『青い青い海』 [映画]

『青い青い海』(ボリス・バルネット監督、クリメンティ・ミンツ脚本、1935年、モノクロ、ソビエト、71分、DVD)

 

 当然古典として、押さえておかねばならない、ボリス・バルネットの1935年作品である。

そこは、ロシアというより、ソ連のコルホーズ漁業組合の、カスピ海の島。船が難破して、二人の若者が島に流れ着き、島の人々(コルホーズの人員)に助けられる。このあたり、シェークスピアの『あらし』を連想させる。

島の娘、マーシャと二人の青年の恋のさや当て──。

それが全然ロマンチックではない。むしろ、ロマンチックなどという言葉は、資本主義の贅沢品なのかもしれない。エロティックもしかり。ここには、恋はあるが、色気はない(笑)。

そして、題名通り、波また波の、「青い青い海」がモノクロで描かれる。波のうねり、力、太陽、夜の光、砂浜、そして、海辺で働く人々──。

 なるほど若者はいるが、かっこいいものも、洗練もなにもない。そして、最後、娘は、二人の若者に打ち明ける。婚約者がいるの。彼はもう5年ほど前から海の兵士として遠くの土地へ任務で言っている。もしそれがあなた方で、婚約者が他の男に心変わりしたら、どんな気持ちがする?

 そうだなー……。二人は島を去る決心をする。歌えや踊れの、集団漁業の人々たち。アゼルバイジャンらしき民族音楽。

 ここには、今の映画が見失ってしまった、肉体がある。そして、その肉体を駆使した力業。海だけリアルで、小屋などは、舞台のようである。そして、笑い。潮の匂いが漂ってきそうな生(なま)な感じ。

 

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『悪の華』試訳1 [訳詩]

Les Fleurs du Mal 『悪の華』より(試訳)

 

「シカシ飽食トイウワケデハナク」

 

奇妙な女神、夜のように褐色で、

ムスクとハバナ葉巻の入り混じった香水をつけ、

なんらかの帯の作品、サヴァンナのファウスト、

黒檀の脇腹の魔女、真夜中の闇の子、

 

SED NON SATIATA

 

Bizare deite, brune comme les nuits,

Au parfum melange de musc et de havane,

Oeuvre de quelque obi, le Faust de la savane,

Sorciere au flanc d'ebene, enfant des noirs minuits,

 

(つづく)

 

*****

堀口大學訳(新潮文庫)

 

「それでも足りない」

 

夜のように鳶色で、麝香と葉巻の混じり合った

かおりを立てる風変わりな女神よ、そんじょそこらの黒人の

魔法使いの手に成った大草原のファウストよ、

黒檀の脇腹をした魔女よ、暗い夜更が生んだ子よ、

 

(私的感想:訳しすぎのような……)

 

****

鈴木信太郎訳(岩波文庫)

 

「されど飽足らずして」

 

夜のやうに栗色で、麝香と葉巻の

混淆した薫を放つ、奇妙な女神よ、

大草原のファウスト博士の黒坊(くろんぼう("ママ"引用者(笑))魔法使の作品よ、

黒檀の腹をもつ魔女、暗黒の真夜中の子よ、

 

(私的感想:なんとか日本語文脈に変換しようとしている)

 

****

 

安藤元雄訳(集英社文庫)

 

「まだ飽きもせず」

 

奇態な女神よ、夜のように色浅黒く、

麝香とハバナのいりまじった香りも高く、

どこかの魔術師、草原のファウスト博士が生み出した、

黒檀の脇腹をもつ魔女、真暗な真夜中の子よ、

 

(私的感想:全体として、「既訳」に遵守している。それにしても、みなさん、des noirs minuits の語順を勝手に変えているんですね)

 

****

 

福永武彦訳(単行本『世界名詩集13「ボードレール 悪の華」平凡社)

 

「サレドナオ足リズ」

 

不思議な女神よ、夜のように栗色で、

麝香とハバナ煙草との匂いを混ぜ、

大草原のファウスト、黒人魔術師の製作品、

黒檀の脇腹をした魔女、闇々の深夜の子よ、

 

(私的感想:リズムは原文にいちばん近い)

 

****

 

私的註:この作品は、4,4,3,3 のソネットである。quelque obi は意味不明であるが、みなさん、obi を「魔術師」と訳しているが、あるいは、そういう意味があるのかも知れないが、自分は無知である。ロワイヤル大辞典を引けば、obi、帯とある。tatami、kimono などのようにフランス語化された日本語のようである。おそらく柔道の、「帯」から来たのだろうと思われる。

 

自分の「有利な点」(?)は、しゃがれ声のミシェル・ピコリの朗読をiPod で毎日聴いていることである。このさりげない、短い文を連ねていくリズムの音を聴いていると、とても、長々と、いかにも美文調には訳せない。

 

 

 


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【詩】「売春婦たち」 [詩]

「売春婦たち」

 

「外見は陽気でも、この女たちはどこまでもつづく不安のなかに生きていた。彼女らは手入れをおそれ、『サラダ菜洗い(パニエ・ア・サラド)』(囚人護送車)と警察署と監獄をおそれていた。病気になることをおそれ、知らない客の一人一人をおそれていた。相手はひょっとしてサディストかもしれず、偏執狂かもしれず、危険な狂人かもしれず、切り裂きジャックかもしれないではないか? 女たちは同様に、自分たちの『保護者』を、その気紛れと、機嫌の向きかげんをおそれていた。現代の宗主たる『保護者』は、自分の『保護する女』を、売春宿に譲渡することも、同業者に売ることも、外国へ売りとばすことも思いのままだった。身をかくしたり、反抗したりする女は不幸なことになった。罪ははげしく問いつめられ、『罰金刑』か『死刑』さえ課せられた。ミリューの容赦ない手は、女のあとを追い、いたるところで女を捕らえた」(『未知のパリ 深夜のパリ──1930年代』写真と文、ブラッサイ、飯島耕一訳より)

 

80年が経った──。いろいろな事件、とくに戦争のかげに、「パリの売春婦たち」の存在は忘れられていった──。けれど、(とくに)女性の体になんらかの商品価値を認め、それを商売するという行為は連綿と続いていた。

買い手の欲望があるからか。

いずれにしろ、実存主義者が「疎外」と呼んだ、人間を物と同等に扱う行為だ。

2017年、アマゾンという「三途の川」の向こう側に拡がる、「ネット界」にも、売春婦たちがいて、詩を書いたり、勉強したりして、堂々と自己表出している。

それが悪いのか? りっぱな職業ではないか! と、ネット界の売春婦たちは主張する。

りっぱな? 

清潔なホテルや、ごくノーマルな容姿と態度の客との「交渉」を、感傷などをまじえて詩に書いている。

そういう売春婦たちには、「支援者」がいる。

売春婦たちは、「売春」という直截な言葉を嫌う。

もっと「明るい」、もっと「清潔な」、もっと「聞こえのいい」言葉を求める。「風俗」といえば、何かが消える? たとえば、彼女たちを縛っているものの姿が。

すきで選んだ職業に見える。

けれど、すきでなど、選んだわけではない。

と、私は考える。

実態は、80年前のパリの売春婦たちとなんら変わってはいない。

できることなら抜け出したい。

でも、できない、のっぴきならないワケがある。

それを、おおやけにすることはできない。

だから、彼女たちを責める人々を呪う。

マムシのように牙をむいて見せる。

おおよそは、それは、昔も今も変わっていないと推察する。

お金の問題。

なんらかの理由で、彼女たちを、お金が縛っているのだ。

だから詩のなかに、せめてもの夢を見たくて、

清潔なホテル、ノーマルな客との、まるで「恋人同士」であるかのような「交渉」を描く。

この何よりも深き絶望を、かつての市川房枝のように、警鐘をがんがん鳴らし、彼女たちに嫌がられながら、鎮魂するのみ。

そんな夢を見てはいけない。

そんなのは、夢ですらない。

清潔なホテルとノーマルな客との「交渉」が。

どこまでもどこまでも墜ち続け、闇の真の姿を見届けて、誰かのベアトリーチェになるしかない。

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「売春やって詩集出すのが、それほどエラいか?」 [なんとなくエッセイ]

紹介します。売春(もっと「きれいな言い方」は、いくらもありますが(笑))を職業とされている女性が、男はみんな穴を狙っている、と「決めつけている」詩集ですが、男には、「穴」ないですかね(笑)?

『底辺女子』という本を読めば、「やむなく」売春をせざる人々もいるようです。また、バングラディシュでは、売春街が公になっていて、一生そこで過ごさなければならない女性たちもたくさんいるし、インドでは叔父にレイプされて妊娠した10歳の少女の中絶が認められません。売春をビジネスとして肯定されると、世界中の不幸な少女たちのためによくないです。それを根本から理解せず、「寄付してます」だと。

どこにも、詩集など出して、自分の職業から得られた感慨などをかきつけた、存外平凡な言葉を持ち上げる、オッサンたち(?)がいるのか。この女性は、はじめから上から目線の決めつけで、私がちょっとコメントしたら、「山下さんは詩集読んでないですよね?」だと。この「決めつけ」。それが、この詩集の著者のすべてです。

売春がそんなにエライのかね〜?(って、日本だけだろ、「好きで」売春やってるのは)

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『ボン・ボヤージュ〜家族旅行は大暴走〜』──おフランスは助けてくれる。(★★★★★) [映画レビュー]

 

『ボン・ボヤージュ〜家族旅行は大暴走』(ニコラ・ブナム監督、 2016年、原題『A FOND/FULL SPEED』

 

 本作の前に、いかにもイタリアの、イタリア映画を観て、それから、これを観ると、両者の違いがよくわかる。イタリアは個人の妄想に終始し、結局他人には興味なく、自分さえよければよく、公共にも奉仕しない。ゆえに、国は滅びる──。ヨーロッパでの発言権はなく、ただ「過去の栄華観光」に頼るのみ。

 

 一方、おフランスは、おバカを装うと言うより、精一杯楽しみながら、言いたいことを言い合い、生きたいように生きながら、他者を助ける。

 

 Taxiシリーズを彷彿とさせる本作で、Taxiでは、庶民の意地をスピードで見せるタクシー運転手の車は白のプジョーであったが、本作、整形外科医と精神科医のエリート夫婦の、とくに、整形外科医の夫が選んだ車は、真っ赤な……メドゥーサという怪しげな車。架空のブランドでなければ、ヤバいストーリー(笑)。

 

 AIで制御された最新式のメドゥーサであるが、ゆえにか、制御不能になる。このあたり、すでにして、おフランス得意の皮肉が効いている。車は停めることが不能の走る凶器となる。家族+ジッサマが拾ったヒッピー風女を乗せた密室劇が、延々と展開される。それに、高速道路警察(?)のアベック「白バイ」やら、BMWに乗る、とばっちり受けまくりのアンチャン、夫の患者でボトックス注射の副作用が出ている(それをリアルに描いているのも、またおフランスのブラックユーモアのすごさである)バッサマと、妻のためにクレーム電話を医師にかけてくる、その連れ合いの車、メドゥーサを売った営業マン(営業所では、またメドゥーサが売られつつあり、早くから、不具合を露呈している(笑))などがからんでくる。道路は何度も「渋滞注意報」が出てひやひやさせる。

 

 そして、高速道路警察は、いかなる手段を取っても、彼らを助けようとする。事故車輌と平行して車を走らせ、まずは子どもと若い女性を、警察車に窓から移らせる。このようなことなど現実は不可能だと思うが、おフランスの警察はやってみせる。そして、最後は、ヘリコプターを飛ばして、妊婦の妻と、夫とその父の老人の乗った車をつり上げる。

 これを考えつき、決定を下すのが、卓球マニアのオバチャン上司。なにかと言えば、卓球のラケットでバシバシ部下の若い男を叩く。

 結局、国民を助けてくれる国は、おフランスである。どんな手段を使ってもね。亡命するなら、やっぱり、マクロンのいる、おフランスだ! 車にもキャラがあるところがすごい!

 終わりの暗転後に響き始めるクールな音楽も、Taxiっぽくキマってるナ。

 

 余談ですが、私はわんこ散歩で、この「お盛んジッサマ」を演じた名優、アンドレ・ドゥサルディエが朗読する、プルーストを愛聴しています(笑)。

 

 


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