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『ラビング 愛という名前のふたり』──あたりまえな願いへの静かな戦い(★★★★★) [映画レビュー]

『ラビング 愛という名前のふたり』( ジェフ・ニコルズ監督、2016年、原題『LOVING』)


 


 なにも60年前のアメリカの、理不尽な人種政策を、ことさらながら描くこともあるまいと思う向きもあるかもしれない。しかし、これが、少なくとも30年前なら、もっとものものしく劇的に描かれていたかもしれないし、『ミシシッピー・バーニング』のような作品が、よりクールだと思ったかもしれない。


 しかし、いま、普通の感情を描くことが尊いし、また可能になってきたとも言える。


 ケン・ローチ監督の『私は、ダニエル・ブレイク』しかり。普通であることを望み、表現することは存外難しい。


 2012年に作られ、2014年に日本公開された、同監督の『MUD』は、まだカタルシス的なものを含んでいた。ミシシッピーの無人島に住み着いている得たいの知れない男(マシュー・マコノヒー)を中心に、彼と知り合う二人の親友同士の少年と、彼らを取り巻く人物たちが人生とは何かを垣間見せる、まさに『スタンド・バイ・ミー』ふたたび、であった。


 本作では、黒人と白人が自然に住み慣らしている地域ではあるが、現実とはそぐわない法律、異人種間の結婚を禁ずる法律があって、それがために、ごく普通の愛し合って結婚した(ワシトンDCで)二人が「犯罪者」として、突然逮捕されて困惑する。当然、全アメリカ的には味方の人権派弁護士たちがいて、最高裁では勝訴するのだが。映画は、これら弁護士たちの作戦中心の法廷ものではない。当然作戦はたてられるのだが──。


 映画は、ひたすら、二人の男女の、ごく普通な願い、いっしょにいたい、夫婦になって家族を作りたい、ちゃんと子育てできる環境のなかで暮らしたい、親しい人たちの近くで生活したい、そんなあたりまえのものを獲得するための、静かな戦いを描いている。


 なんで俳優になったのかわからない、いかつい風貌で、悪役の多いジョエル・エドガートンが、無骨だが心優しき男を描いて、リアルさを感じさせる。とくに、職業のレンガ職人の仕事の手馴れた感じが、見ていて爽やかである。相手役のルース・ネッガも、黒人女性からくる紋切り型イメージとは遠い、しぐさや眼差し、しゃべり方の、繊細な柔らかさが心地よい。


 この二人、白人のリチャードの父が、黒人のミルドレッドの父に使われていたという事実も見逃してはならない。かなり屈折した地域で、起こるべくして起こったできごとを、主人公の名字、ラビングに引っかけた題名であり、物語である。

 



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『わたしは、ダニエル・ブレイク』──ひとには名前がある(★★★★★) [映画レビュー]

『わたしは、ダニエル・ブレイク』(ケン・ローチ監督、 2016年、原題『I, DANIEL BLAKE』)


 ヘレン・ケラーは、「ものには名前がある」ということをサリバン先生から学んだ──。本作は、ひとには、(識別番号でなく)名前があるという、あたりまえでありながら、昨今見過ごされがちなことを訴えている。


 イギリスは階級社会と言われるが、社会制度も整っている。しかしそれを享受するには、それなりの手続き、ルールがある。そのルールからはみ出し、手続きをしないと、あるいは、する資格を失うと、貧者はホームレスへの坂道を転がり落ちる。売れている俳優や監督にとっては、どうでもいいような世界である。もっと派手なテーマを追った方がウケるし、目立つし、かっこもいいかもしれない。しかし、ローチ監督はあえて、こういう作品を撮る。そして、カンヌ映画祭が、グランプリである、「パルムドール」を与える。さすが、おフランスである。映画界も捨てたものではない。こういうスキマからこぼれてしまうような事柄、人々を描いてこその映画である。


 しかし、イギリス、階級社会とはいえ、庶民パワーもすごい。役人たちの、あまりに杓子定規な対応にキレたダニエル・ブレイクが、役所の壁にスプレーで落書きする、「私はダニエル・ブレイク、名前を持った人間だ!」。それに喝采する、通りすがりのオッサン、通りの向こうの、若い労働者たち。このパワーがイギリスなんだなーと思う。しかも、舞台はニューカッスルで、もろニューカッスルなまりで、実は私も英語があまり聞き取れなかった。


 二人の子持ちのシングルマザーは、ロンドンを追い出されて、この地方都市にやってきた。「フードバンク」(なるものがイギリスにはあって、配給券を持っていくと、野菜、缶詰、日用品、飲み物などをくれる)で、あまりに空腹で、フードを袋に入れてもらっている間に、缶詰を開けて口に突っ込んでしまうシングルマザー。この演技があまりにリアルだ。イギリスの俳優は、ほんと、ほんものを連れてきたのではないかという演技をする。『秘密と嘘』の過去に(黒人の)隠し子を持ったことで悩むオバサンもそうだった。イギリスの低所得者の団地のような住宅に、ほんとうに住んでいるオバサンを出したのだろうか?と思ったほどだが、ちゃんとパーティーで、ドレスアップしてきて女優とわかって安心した(笑)。


 このダニエル・ブレイクも、まだ60歳前のオッサンだが、全然かっこよくないところがじんと染みる。シングルマザーの子どもの1人の、おちつきがない男の子も、このオジサンがじっと木彫りを作るのを真似て、15分もじっと工作を作ることを学び、母親を感激させるシーンも、繊細な目配りがなければ撮れないところだ。

 

 



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『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』──「私に出会うため」の「破壊」(★★★★★) [映画レビュー]

『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う (ジャン=マルク・ヴァレ監督、2015年、原題『DEMOLITION』)


 


 この映画には、たとえ夫婦の過去の幸せな時間を表したシーンにさえ、セックスもなければキスもない。この映画の中では誰もキスしない。妻は死して、なぞなぞのようなポストイットの貼り紙を、冷蔵庫や車のサンバイザーなどに残し、妻のタンスの中には赤ん坊のエコー写真入りの封筒がある。しかし、主人公のデイヴィス(ジェイク・ギレンホール)がこれを見つけるのは、車なり冷蔵庫なりタンスなりを、「破壊する途中」である。妻が死んでも何も感じない苦しさに、デイヴィスは、夫婦の品物(家も含めて)を破壊し始める。体がもぞもぞしてと医者にかかると、なんとかいう蛾の幼虫に心臓が食われている写真を見せられる。その蛾は、両親の家で、父が庭の木について困ると言っていた蛾だ。


 


 なにもかもが「意外な展開」を見せる。妻が死んだ病院のM&Mのチョコの自販機で、チョコが引っかかって出ない。受付に苦情を言うと、「たまにそういうこともある。だが、自販機会社が管理しているので、そっちに文句を言ってくれ」と、アフリカ系の事務員に言われる。それで、デイヴィスは、自宅へ帰ってから、自販機会社へ、クレームの手紙を書く──。


 


「妻が死んだ病院で、空腹を感じたので、チョコの自販機にお金を入れたのに……」などと書き始め、待てよ、妻とのなれそめも必要だなと、その手紙は、小説のように長くなる。一方、自販機会社のクレーム係、カレン・モレノ(ナオミ・ワッツ)は、その手紙の書き手に興味を持って探し始める。二人が出会い、恋愛にはならず、ナオミは、ジェイクの自分捜しをそっと見守ることになる。一方、ジェイクは、ナオミの、「見かけは12歳だけど、実際は15歳」の息子のクリスと親しくなり、「自分はゲイなのか?」の悩みを相談される。息子は、上級生の「チンポを舐めたくなる」と言い、ジェイクは、「それじゃあゲイかもな」で、アドヴァイスを与える。「2、3年は、女の子をすきなフリをしていろ。それからマンハッタンかロスに移り住むんだな」まこと適切なアドヴァイスである(笑)。


 


 本作ほど感想の書きにくい映画はない。すべては確定されず、漂っているからである。もしかして、デイヴィスの妻は、「自殺」、あるいは、「無理心中」だったのかもしれない。なぜなら、運転中完全に横、つまりデイヴィスの方を向いて話していたからである。


 


 タンスから出てきた封筒から、妻が妊娠していたと知ったデイヴィスは、義父母に告げるが、義母は、「それはべつの男の子どもで、いっしょに堕ろしにいったと」と告白する。


 


 果たして、真実は? それは、どこにもなくて、ただ、主人公が「私に出会うため」の「破壊」をする。ジェイク・ギレンホールは、同じ年頃(36歳)の俳優やそれより上の俳優(ブラピ)などのように、ヒーローにはならない。いつでも透明で、まるで脇役のように主役を演じる。


 


 


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『アサシン クリード 』──こちらモノホンの「騎士団長殺し」(笑)(★★★★★) [映画レビュー]

『アサシン クリード』(ジャスティン・カーゼル監督、2016年、原作『ASSASSIN'S CREED』)


テンプル騎士団が関係する話というので興味を持った。騎士団とは、キリスト教徒の聖地(エルサレム)詣でを保護するためにできたという。とくに、フィレンツェのメディチ家は、金融業を営んでいて、借金の取り立てに騎士団にその保護を頼んでいたらしい。そういうわけで、騎士団には莫大なお金が流れていたらしい。それは代々受け継がれ、フリーメーソンのような、いまも伝わる秘密結社になっている──というのが、本作の物語の下地で、その団体の長を、シャーロット・ランプリングが演じている。


一方、その団体から資金をもらって、「世界から暴力を取り除く」研究をしているのが、マリオン・コチャールの博士で、その父親(ジェレミー・アイアンズ)の研究を受け継いでいると思われる。アイアンズは、もちろん、この結社の会員である。しかし、テンプル騎士団でもなんでも、騎士団というのは、カトリック系の自衛団で、暴力、陰謀など、いろいろと因縁バナシはある。本作では、この騎士団は、「エデンのりんご」に隠された、「人類支配の秘密」を得ようとしている。そこを、アイアンズの娘のソフィア博士は、「暴力をなくすため」と教えられていた──。


それには、テンプル騎士団に対抗する秘密組織、アサシン(暗殺者という意味だが)クリード(派)という組織があり、それらの子孫を見つけ、DNAの暗号を操作して、過去に遡らせ、教会によって異端審問で火あぶりにされようとしている、祖先のアサシンと「シンクロ」させ、アサシンを生き延びさせることだ。


ソフィアことコチャールはそういう研究をしている。異端審問がいかに怖ろしいことかは、頭に入れておく必要がある。


そして、抜きんでた身体能力を持つアサシンの子孫が、死刑囚であった、カラム・リンチこと、ファスベンダーである。子どもの頃、父に母を殺された体験を持っている。おそらく、与太者を数人殺してしまったのであろう。とにかく「身分」は、死刑囚で、死刑の執行が行われる(毒入り注射)──。リンチが死んだと思って目覚めるとソフィアの研究所で、同じようなアサシンの子孫たちが集められている。そこには、リンチの父親もいた。その父から、母を殺したのは、「過去を守るため」みたいなことを言われ、父を殺すのを断念する。


どこがどうおもしろいのかというと、SFチックに、脳が「過去へ旅する」というのはよくあるが、遺伝子というのは、暗号なので、物質でなくてもいいので、それは、「現在の」リンチの中にも存在していて、つまり、アサシンの子孫であったものは、「現在もアサシン」であるのだった。同様に、テンプル騎士団も、現在まで続いていて、それがランプリングの団体なのである。


「目覚めた」リンチは、祖先のアギラールと、「シンクロ」し、すぐれた身体能力を回復し、得意技の、イーグル・ダイブ(非常な高所から真っ逆さまに飛び降りる)をしてみせる。


リンチ=アギラールの脳から得られた情報によって、「エデンのりんご」が、コロンブスの墓にあることを知り、ついに、テンプル派が手にして、その集会。アイアンズがそれを手にして、会員たちの前で演説をする──。


そこに、リンチ登場。フード付きの修道士の衣装を身につけた、アサシンのかっこうをしている。「舞台袖」にいて、父親に裏切られたと感じている、ソフィア=コチャールと対面。ソフィアは、迷いながらも声を出して人は呼ばず、リンチのなすがままにさせる。すなわち、自分の父を暗殺させる。


ここで、アサシン・クリードは、目的を遂げる。

 

これがこの映画のすじである。今回、マイケル・ファスベンダー不感症の私が、ようやく彼が「世界一ハンサム」と言われるわけを納得。端整な顔立ちに、体が、筋肉もほどよく、バランスがとれて美しいのである。かてて加えて、すばらしい動き。コチャールも、オジンのブラピより男盛りのファスベンダーの方がお似合いだと思われる。しかし、この二人、40歳と41歳(コチャール)である。大したもんだ。ま、コチャールは、顔はともかく、スタイルはそれほどよくないが。


ゲーム原作ゆえか、複雑なストーリーで、まず歴史を知らなければ、ちんぷんかんぷんで、寝落ちもするだろう。導入部の、中世スペインの場面のヘビメタといい、最後の、民族音楽味つけのフュージョン風音楽といい、ひさびさ興奮した映画だった。いま、いちばん新しいアクション映画だ。


村上春樹も、このくらいは、書き込んでほしかったナ(笑)、「騎士団長殺し」というなら。


私が鑑賞した回は、夕方の六時すぎで、観客は多くはなかったが、私以外の10人ほどはすべて男性で、そこへ、カップル一組と、イスラム教徒の女性二人(スカーフをしているのでわかる)が入ってきた。キリスト教徒が悪という映画なので、やっぱりね〜であるか。

 


 


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『惑う After the Rain』──レトロに隠された劇的なるもの(★★★★★) [映画レビュー]

『惑う After the Rain』(林弘樹監督、 2016年)


タイトルの出方といい、昭和30年代頃のいにしえ映画の趣である。色合いといい、もったりしたセリフ回しといい、物語の場面設定といい、また、描かれる生活といい、これまでわれわれが切り捨ててきたもの、言ってみれば「古きよき日本」そのものである。それはそれで、ある意味「度肝を抜く」が、そういう映画で終わってしまうのかな〜と漫然と見ていると、時間は昭和27年から、突然昭和55年に変わり、昭和35年になったり、また27年になったりする。そうやって、「1章」「2章」と進む。


物語の基本は、昭和55年、どちらかといえば伝統的な家屋で、伝統的な暮らしをしている普通の銀行員の女性が、明日は結婚ということで、母と「実家での最後の時間」を過ごす。その時間さえ、あっけないほどさりげなく、どこか心さみしく感じられる──。


だが、やがて、この家族が、特別な家族であることがわかってくる。父はすでに他界しているが、この父は、もともと子だくさんの貧乏人の末っ子で、勉学心に溢れていたので、私塾の教師の養子になる。その私塾の教師の家が、由緒ある料亭であった。その養子はイギリスへ留学して学者となり、私塾を継ぐ。それが物語の一家の父親セイシロウで、料亭の仲居をしていたが、そこをクビになった、イトという女がセイシロウと出会い、「身の回りの世話」をするお手伝いさんとなる。この宮崎良子演じる、イトという女が、実は、物語の中心、真の主人公なのである。このイトは、空襲で家族を失った女であるが、日本の女性が身につけているべきものはすべて身につけ、しかも心根がよく、終始笑顔のすばらしい女性である。


この一家は、セイシロウとイトの夫婦に二人の女の子がいるが、女の子二人は、二人の実子ではなく、ある「雨の夜」、庭先に、捨てられていた子どもである。一人は赤ん坊で、姉の方も2歳ぐらい。イトはかわいそうに思って、自分の子どもとして育てるという。その時、まだ彼女の身分は、「お手伝いさん」である。しかし、セイシロウもその考えに賛成し、イトに結婚を申し込む。そうして、「家族」が生まれ、セイシロウもイトも、その子たちを心から愛し育てる。


セイシロウの夢は、自分の家から子どもたちを嫁に出すことだったが、発作を起こして死んでしまう。イトが意志を継ぎ、和裁の内職で必死になって子どもを育て、いよいよ嫁入りとなる。しかし、妹の方は、都会に出て、未婚の母となって戻ってくる。家も、由緒ある料亭の離れなので、区画整理の建て替えのため、本家の長男から出てくれと言われる。


それやこれやいろいろあったが、しっかりものの長女や塾の卒業生たちの協力で事態はよい方に運び、ついに長女の結婚式が、その料亭の座敷でとりおこなわれることになる。これさえ、古めかしい、「高砂や〜」の「祝言」形式である。花嫁は白無垢に次いで、お色直しをする。あでやかな赤い着物。しかし、そこに、司会役料亭長男(なんとなくまかれて、ちょっとだけ「いい人」になっている)が「もう一組をご紹介します」という。未婚の母の妹が、やはりあでやかな白系の着物で、子どもの父の男と登場。驚く招待客たち。姉妹のお披露目の日本舞踊が始まる。ここで、姉妹の子ども時代から、母イトが独自に鍛えていた踊りが生きるのである。


ここらあたり、がーーーっと劇的なるものが高まる。


宮崎良子のイトが最高である。料理、和裁、舞踊、作法……すべて備えている、真のしっかりした、しかしそれを表に出すことのない女が、「家族」の意味を組みかえ、「完成」させるのである。

 

 

 



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『ラ・ラ・ランド』──ポストモダンのミュージカル(★★★★★) [映画レビュー]

『ラ・ラ・ランド』( デイミアン・チャゼル監督、2016年、原題『LA LA LAND』)


 60年代のファッション、カラー、アイテムなどを材料にした(「映画の現実」の時間は、スマホ、プリウスなどがある、21世紀の現在)、まったく新しい切り口の「ミュージカル」で、さすが、ハリウッドの職業組合も、その点を評価した、今回のノミネートだと思うと、ハリウッドも捨てたものでない、そして、時代は完全に変わっていると思われる。


 本作に不満を持っている観客は、いにしえのミュージカルが頭から抜けないのだと思う。これは、のっけから、まったく新しい切り口であることが知らされる。ここで、理解できないと、それは、最後までひきずってしまうことになる。


 私はこれまでミュージカルはあまりすきでなかった。というのも、ストーリーはお飾りで、繊細な心理までは描かなかった。雨のなかでノーテンキに踊る男に、共感はできなかった(笑)。


 それが本作では、ジャズの神髄から、時間への考察などが、登場人物の男女の繊細な心理ものとして表現されている。


 それに、女優が女優を演じたり、ハリウッドそのもの題材にすることも難しいが、その難しさを大胆にクリアしている。


 俳優たちも、肉体を十分に駆使して、演技が本来、肉体運動に近いことを教えてくれる。


 それに、オマージュ、というより、さまざまな「引用」が洗練されている。とくに、フリージャズ志向のライアン・ゴスリングは、ビル・エヴァンスを思わせなくもない。


 夢とは叶えるもの。ジャズとは脱構築である。ということをあらためて認識させてくれる。


 


 


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『愚行録』──見ることの快楽(★★★★★) [映画レビュー]

『愚行録』(石川慶監督、2016年)


 さすがポランスキーが出た「ポーランド国立映画大学」で学んだことを思わせる、日本的スタイルからは完全に脱している作風である。そういう作品のなかでは、妻夫木聡がファスベンダーに見えてくる。事実、妻夫木は欧米俳優なみの集中力(本作では、ひさびさに見る、精神科医役の平田満をはじめ、ほとんどの俳優が高い集中力を発揮している。つまり表情が揺るがない)を見せている。妹役の満島ひかりも、同様の集中力を発揮、こちらも、キャリー・マリガンなみの演技力を見せる。事実、セックス中毒の兄をファスベンダーは演じ、その厄介者の妹を、マリガンが演じた。しかし、兄妹といえど、欧米ではどこまでも個人で、悩みも個人の範囲にとどまる。ところが、本作は、問題が、日本特有の陰湿さをはらんで、学校カースト、就活、飲み会、幼児虐待、などが、リアルな会話によって炙り出されていく。


 作中人物が「日本は格差社会じゃなくて階級社会だ」と言うが、欧米の階級社会はこんなものではないだろう。歴史にがんじがらめにされたそれは、もっと根源的で絶望的なものだろう。


 一部のレビュアーが物語のできに不満を訴えていたが、これは、映画の疵ではなく、原作が悪いのだろう。ミステリーとしてはありきたりな常套である。一家惨殺事件の犯人は、その一家に虐げられた人間──。いかに虐げられたか。吉田修一原作の『怒り』も、似たような物語であるが、ただ、あまり犯人の側に立っていない。事件を起こしたのは、ある人物の瞬時の「怒り」であったと主張している。本作は、「愚行」だったのだ。しかも「録」。そういう愚行を集めた記録? これは誰の視点だろう? 当然、妻夫木の視点だと思われる。そういう自分をどこか客観視しているような醒めた感覚が、「週刊誌記者」である妻夫木を貫いている。私ははじめて、この役者がよいと思った。


 暗い作品だが、ハイスピードカメラでとらえられた、なにげないバスの乗客たちのスローモーションの表情といい、老女に席を譲るように、ほかの乗客から叱られた妻夫木が、いやいや立ち上がってからバスの床に倒れ、実は脚が不自由だったと見せつけ、叱った男にばつの悪さを味わわせ、バスを降りてからも、しばらく不自由な歩行を続け、叱った男の気まずい表情をガラス越しにもう一度見せる。そうかこの主人公は脚が悪いのかと思った瞬間、正常な歩行に戻るシーンは、『ユージュアルサスペクツ』のケヴィン・スペーシーを思わせるが、そんなのっけから、見ることの快感に引きずり込まれ、いつまでも見ていたいと思わせる作品である。

 

 



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『王様のためのホログラム』──ドイツ人監督の徹底した「中東転職モノ」(★★★★★) [映画レビュー]

『王様のためのホログラム』(トム・ティクヴァ監督、2016年、原題『A HOLOGRAM FOR THE KING』)


 


まず、本作は、監督のトム・ティクヴァを知らないと、どういう映画かわからなくなって、「なんでサウジアラビアなのー?」「トム・ハンクスなんでこんな映画出たのー?」「ただのオッサンの転職ものだけじゃん」てなお寒い感想になる。ティクヴァ監督が過去にどういう作品を監督したか──。


 


 まず、根性女子が「ただ走るだけ」の映画、『ラン・ローラ・ラン』。しかし、走り抜くことによって、ついに事件を解決する。これは評判になったので、サントラも持っている。この時のローラ役の女優は、のちに、マット・デーモンの『ボーン』シリーズで、ボーンの恋人役として登場。


 


 つぎに私の大好きな映画、『ヘヴン』、それこそ重信房子のようなテロリストの女、ケイト・ブランシェットが、イタリアで爆破事件を起こし、看守のイタリア青年と恋に落ちる。そのイタリア青年は、デビュー当時の風間杜夫のように、素人っぽさを漂わせたウブそのものを演じきっている、アメリカの曲者俳優、ジョヴァンニ・リビシ。その後のリビシの出た映画を見れば、とても同じ人間とは思えない(笑)。題名からもダンテ『神曲』をもじっているのか。至上の愛を描いている。


 


 続いて『ザ・バンクス』。なにかと大味のクライブ・オーエンであるが、この映画ではかっこいい。インターポルを演じて、今はあたりまえだが、当時は「最先端の犯罪」、銀行の悪行を追う。かてて加えて、FBIだったかなー? ナオミ・ワッツ。この映画にも痺れた。


 


 そして、本作にも、ホログラムプレゼンの、「ホログラム姿」として登場している、ベン・ウィショーを世に出した、『パヒューム』。半裸のベン・ウィショーは得たいの知れないジプシー青年そのものだった。その後の、発明オタク青年「M」になるとは想像もつかない。考えてみれば、「どんな映画かわからない」映画だ(笑)。


 


 と、まあ、そういう監督が、「あえて」、今のサウジアラビアの「日常」=「現状」を、フィクション「でしか」表し得ない「事実」を提出しているのが本作である。公開処刑さえ「日常」の姿として(シーンはない)「語られる」。CGかも知れないが、「メッカ」もつぶさに写される。戦争モノ、軍事モノでは、ここまで細やかにアラブを描くことはできなかっただろう。


 


 そう、自動車会社の取締役をクビになったオッサンのトム・ハンクスが、(キャリアを生かして)再就職した会社から、サウジにホログラムを売りに飛ばされる。部下三人とともに。異文化ショックもさることながら、それどころではない「警察国家」で、職場環境を変え、現地人の友人を持ち、かなりイイセンまで改善していく。だが、結局、ホログラムは売れなかった。というのも、「もっと安い中国製」が売れてしまったから。それでも、トムは、現地で、自分の背中の脂肪腫(こういうディテールがいかにもトム・ティクバなのだ)を手術してくれた女医と親しくなる。監視国家を逆手にとった、デートがすばらしい。


 


 サウジでは、いろいろな国から働きに来ていることがよくわかり、トムはデンマーク人女性にも言い寄られる。さすが北欧の、大使館でのハチャメチャパーティーも「すっぱ抜かれる」(笑)。


 


 ドイツ人でなければできない徹底した視点の入った、「オッサンの中東転職モノ」なんです(笑)。


 


 


 


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『たかが世界の終わり』──ウリエルの美を堪能(★★★★★) [映画レビュー]

『たかが世界の終わり』(グザヴィエ・ドラン監督、2016年、原題『JUSTE LA FIN DU MONDE/IT'S ONLY THE END OF THE WORLD』)


 


 かつて、映画評論家の淀川長治は、アメリカ滞在中、いやいや無名の監督の作品を見せられ、やがて、それは感心に変わっていった。「こいつ、映画がわかってる」──。いうまでもなく、それは、スピルバーグの『激突』であった。


 グザヴィエ・ドランの前作『マミー』には辛い点をつけた私だが、今回この作品を観て、淀川センセイと同じ言葉が口をついて出た。「こいつ、映画がわかってる」。


 説明なし、進展なし、明確な物語なし、しかし、時間だけはそこにあって、家族を演じる俳優たちは、好き勝手な言葉を投げつけ合うのみ。そして監督は、彼らの視線をとらえる。ショットは、おもに胸から上、首から上のみも多い。その中心には、美しいギャスパー・ウリエルがおり、マリオン・コティアールがいる。彼らは、まるで恋人同士のように視線を交わらせるが、完全に恋愛というわけではない。コティアールは、兄嫁であり、奥ゆかしい、思いやりも慎みもある性格である。一方、作家が職業であり、十二年ぶりに家に戻ってきたウリエルはゲイである。ウリエルは、前作『サンローラン』でもゲイを演じているが、美しい男の宿命かもしれない(笑)。


 まー、私としては、ウリエルの美しさを堪能しましたわ〜(笑)。彼の哀しみ、彼の後悔、彼の夢想、彼の躊躇、彼の孤独、彼の恐怖、そして、彼の絶望……。すべてはまなざしで演じていく。そして、展開するのは、毎度、おフランス式個人主義の罵り合い。


 ハリウッド映画を見慣れた目は、欲求不満を感じるかもしれない。しかし、これこそ、生なのだ。若きスピルバーグが、ただカーチェイスのみを描いてみせたように、ドランも「罵り合い」のみを描いて見せる。その時間。


 堪能するか、寝落ちするか、それはあなたのココロザシしだい。


 ぐにゃぐにゃの感情のもつれを、テンポのいい渇いた音楽がきれいに包んであなたに差し出す。


 ドランは無名の役者たちより、スターたちを得てドラマ作りをした方が格段に光っている。

 

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『シチズンフォー スノーデンの暴露』──プライバシーの侵害は自由の侵害(★★★★★) [映画レビュー]

『シチズンフォー スノーデンの暴露』(ローラ・ポイトラス監督、2014年、原題『CITIZENFOUR』)

 

 これは、ただの内部告発ではない。内部告発というのは、ある企業の従業員が、ある仕事をすることで知り得た企業の秘密(=悪事)を、世間に対して公表することである。その際、その人は、新聞などに「飛び込んで」情報を提供する、というか訴える。

 エドワード・スノーデンのしたことは、もっと精巧である。相手はただの私企業ではない。相手は、自分もその国民である国であり、国家はまたべつの国家と繫がっている。「国民の安全を守るためなら、国民のプライバシーなどは犠牲にしてもいい」と考える、いわばイデオロギーの集合体である。

 

 Yahoo!レビューにあった、「やましいことやってなければ、別にネット環境覗かれても大丈夫、とか思ってしまうバカの見本のような、私」そう、あなたは、バカの見本です。しかし、そういうイデオロギーの総体は、こういうバカをあてにしている。国民の大多数がこういうバカであることを望み、バカであるように仕向けてもいる。本作のなかで、スノーデンと同じような機密を扱う起業家だったかの青年が言う、「プライバシーの侵害は自由の侵害なのである」。まさに、この点が問題だと思われる。

 

 私は、オリバー・ストーンの『スノーデン』を見たあと、Amazonビデオのレンタルで本作を見た。オリバー・ストーン作は、スノーデンという個人の内面に立ち入り、それをドラマの中心にしている。しかし、それこそ、スノーデン本人が、本作で避けてほしいと望んだことである。なぜなら、「個人に関わってしまうと、焦点がズレてしまう恐れがある」。スノーデンという、聡明な青年は、この暴露を、誰に対して発信するか、ファイルの渡し方、その後の行動、政府の反応など、すべて考慮に入れて行動している。彼が「駆け込んだ(=コンタクトした)」先は、踏み込んだドキュメンタリーですでに監視を受けた経験のある、ローラ・ポイトラス。そして彼女は、英国紙『ガーディアン』の記者、グレン・グリーンウォルドと繫がっていて、あるホテルの一室で行われたインタビューのすべては、グリーンウォルドが担当する。『ガーディアン』紙といえば、反骨の特ダネを多くものしているので、私もFacebookではニュースラインでチェックしている。

 

 彼らがいかに「効果的に」、米国の全国民対象のプライバシー侵害を、世間に告発するかが、本作の中心である。スノーデンは、ストーン監督のもとで、彼を演じた、ジョセフ・ゴードン・レーヴィットにまさるとも劣らない美青年であり、低い声で理性的に話す話し方も魅力的である。

 オリバー・ストーン作は、ほぼ本ドキュメンタリーをエンターテイメントとしてなぞっている感じだが、まあ、「さらに人々に事態をアピールする」ためなら、今上映される意味もあるだろう。

 

 「テロとの戦い」を理由に、世界中の人々が、政府に騙されないことを祈るのみだ。

 

 

 

 


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