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『午後8時の訪問者 』──絶対的善人(★★★★★) [映画レビュー]

『午後8時の訪問者』(ジャン=ピエール・ダルデンヌリュック・ダルデンヌ監督、2016年、原題『 LA FILLE INCONNUE/THE UNKNOWN GIRL』)


 

 ダルデンヌ兄弟の映画には、悪人は出てこない。物語のなかで、「悪役」側にまわる人々がいるが、それは人間的な弱さゆえに、「善」でいられないのだ。そして、「絶対的善人」が登場するが、それは、普通の映画ではまれな、まして、人が殺されるような状況の映画では、決して存在しないような人物である。


 事実、本作でも、実は、殺人事件はない。というのも、どうも、「死んでいた少女」は、自ら足を滑らせ川に落ちたようなのだ。誰かから逃げていたのだが、この誰かが、一応「犯人」ということになるが、その「犯人」さえ、殺意はなく、実際殺してもいない。その「犯人」は、ある少年の父親で、少女が娼婦と知って、わざわざ車を降りて追いかけたのだ。なぜ? ただ「客」になりたかったのだろう。その男の、ティーンエージャーの入り口にいる年齢と見える息子は、病弱で、医院の待合室で「てんかん」のような発作を起こす。医師のジェニー(女)は適切に処理する。研修医のジュリアン(男)は、指導のジェニーに言われた処置をすぐにすることができず、ただひきつけを起こす少年を、おろおろと見下ろすだけだった(それには、少年時に虐待されたトラウマがあったことを、のちになって彼はジェニーに告白する)。ジュリアンはなにかとジェニーに意見される、できの悪い研修生のようだ。その夜、ちょうど診療時間が終わった午後8時、診療所のドアベルが鳴るが、出ようとするジュリアンに対して、「もう診療時間は終わっているから」と、ジェニーは、ドアを開けることを禁じる。


 翌日、刑事が訪ねてきて、近くの川辺で、少女の遺体が発見されたと知らされ、防犯カメラの写真を見せられる。そう、前日、午後8時にドアホンを押すのが、医院の防犯カメラに写っていた人物だ。


 その人物は、アフリカ系の少女だった──。そこから、さまざまな社会的問題があぶり出される。ダルデンヌ兄弟の目的はここにある。ひとつの「遺体」を通して、その「関係者」たちを追っていく。そのひとりが、女医のジェニーで、彼女は、ドアを開けなかった罪悪感から、遺体の少女の家族を捜したり、「無縁仏」(笑、仏教とはかぎらないが)用の墓地を借りたりする。自分には医師の資格はないと田舎へ帰ったジュリアンの前途を断ってしまったとも感じ、彼をも追っていく。そのほか、田舎町の医療事情に私欲を抑えて貢献しようと、大病院の医師への道をコース変えして、苦労の多い診療所の老医師の跡を継ぐ。


 ジェニーは絶対的善人である。その真剣なまなざしを、「天才」と言われる、アデル・エネルが淡々と演じる。不良どもに脅されても、まったく動じないわけではないが、かろうじてでも耐え抜く。華やかさとも、浮いた話とも無縁で、今与えられた状況に立ち向かっていく。やがて、彼女の周囲の、悪の側に行きそうな弱い人間たちも、それとなくほだされていく。だがそこに、ハリウッド映画のヒロインのようなかっこよさも、カタルシスもない。場所がフランスにしろベルギーにしろ、要するにヨーロッパの田舎町で、アフリカ系の人々の「底辺」へと堕ちざる得ない状況をさりげなく提示し、「善」の必要性を小さな声で主張する。音楽にも五つ星をつけたものの、音楽はない……しかし、ジェニーのためのオリジナルソングが存在する。アデル・エネルは、ぶっきらぼうなセリフと真摯なまなざしと無垢な表情で、女優であることを完全に忘れさせる。

 

 



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『ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命』──ジャッキーは「オナシス」として記憶される(★★) [映画レビュー]

『ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命』(パブロ・ラライン監督、 2016年、原題『JACKIE』)


  本作は、ケネディ大統領の、ジャクリーヌ夫人が、大統領が暗殺された日から4日間の、いかに大統領を歴史に残るように、とくに、葬式を「アレンジ」するのに奔走する姿が、夫を失った悲しみと、暗殺というショックのなかでのがんばりとして描かれているが、もともとこんな「事実」(?)があろうがなかろうが、ジョン・F・ケネディは歴史に残っただろうし、誰も、メディアが映し出した葬儀のことなど忘れてしまうし、世代も交代していくから、こんな「演出」などはどうでもいいことなのである。それをさも、意味があるように描いているのは、チリのピノチェト独裁政権への、反信任キャンペーンを請け負った、広告マンの、骨太な活躍を、ガエル・ガルシア・ベルナル主演で描いた前作『NO』も同じことである。こういう「些末な」、事実かどうか知らないが、それはどちらでもよいような事柄に、さも意味があるように焦点を当てているのは、この監督が、なにか大きな勘違いをしているからのようにも思える。


 だいたい、本作の主演のナタリー・ポートマンも、ガエル・ガルシア・ベルナルも、顔は美しいが背が低いという共通点があり、それが、歴史を描くにはなにかもの足りない身体となって現れる。推定身長、ポートマン→158センチ、ベルナル→163センチといったところだろうか。トム・クルーズも同様かもしれないが、クルーズはそれを、オーラのようなものでカバーし、かつ、演出が、「周囲の人物」を、彼の身長にあった、つまり、彼を小さく見せないような俳優陣を選び配していると思われる。


 それをおいても、「ジャッキー」という人物には、人はそれほど共感しないようにも思われる。のちに大富豪のオナシスと再婚し、ジャクリーヌ・オナシスという名で、人々の記憶に留められている女には。一方、ジョン・F・ケネディも、アメリカの歴史には珍しく、左翼的に活躍した人物であるが、どうしても、マリリン・モンローの影がちらつく。


 彼の弟のロバート・ケネディ役の、ピーター・サースガードは、よく演じていたと思うが、当のジョン・F・ケネディが、完全なる脇として、「ジャッキー」のそばに影のように寄り添っているが、こちらは、セリフはほとんどなく、顔は「そっくりさん」であるが、日本人の私には、どうも林家三平(今の三平の父の「どーもすいやせ〜ん」の方)に見えてしょうがなかった(爆)。


 


 


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『ムーンライト』──歴史初の繊細さを表現した黒人映画(★★★★★) [映画レビュー]

『ムーンライト』(バリー・ジェンキンズ監督、 2016年、原題『MOONLIGHT』)

 

 確かに日本でも、都会では外国人(外形が明らかに違う、アジア系ではない人々)が結構いるが、地方では、日本人ばかりの地域もあると思う。本作の舞台は、マイアミだそうだから、それほど田舎でもないと思うが、とにかく本作には黒人しか出てこない。これを「黒人コミュニティ」と取るのもよいが、本作が戯曲だったと知って、あるいは、映画化にあたり、「演出」で、全登場人物を黒人にしたのかではないかという考えがめきめきと頭をもたげた。というのも、黒人しかいないのに、主人公のシャロンは、同級生から、「クロ」だの「ニガー」だのと呼ばれ続けている。これは、日本人のコミュティで、イジメの対象の一人を、「ジャップ」だの「イエローモンキー」だの呼ぶことと等しい。自嘲気味の皮肉でそう呼んでいるのかもしれないが、もしかしたら、舞台では、いじめっ子たちは、白人やプエルトリコだったかもしれない──。

 

 さて、全員が黒人映画となると、白人映画をかくも見慣れた日本人たちは、自分たちは白人に属していると、無意識に思い込んでいるフシがあるレビューが多々見られる。

 かつては、南アフリカ共和国で、アパルトヘイト「華やかなりし」頃、日本人は、「名誉白人」なる特別称号をちょうだいして悦に入っていた。まこと、モンキーである(笑)。

 まあ、なんというのかな、白人文化にとっては、白人とカラード(有色人種)にしか分けられないということだ。白人から見たら、日本人だって、本作の映画のように、「異形」の人々である。

 しかし、本作は、『ラビング』のように、黒人差別を扱った映画ではないことは一目瞭然である。なぜなら、差別する白人がどこにもいないからである。

 

 ある(クスリの)売人が登場する。のっけからワルでないことがわかる。ジャンキーたちのたむろする場所にある廃屋を覗いてみると、小学生らしい男の子がいて驚く。やがて、男の子は居場所がなくてそこに来ていることがわかる。少年の母親はヤク中で、彼は同級生から苛められていることがわかる。売人は妻の助けも借りて、その少年を保護し、人生に必要な教訓も与える。少年はおとなしく純真で、それは高校まで維持される。イジメが頂点に達した時、彼は「変身」する。苛酷さが度を超すと、あどけない少年が鬼に変わるのは、『スターウォーズ』のアナキンがダースベーダーに変身するがごとくである。

 かくして、純真な少年は、鬼になり、苛めのリーダーを椅子でぶちのめす。警察に逮捕される。

 その少年は結局、はじめに彼を助けてくれた売人と同じ職業になった。筋肉隆々、フェイク金歯を入れ、首からはゴールドチェーンのネックレス。典型的売人スタイルである。少年、今はおとなの、シャロンは、売人として手下を使いうまくやっていた──。そんなある日、二本の電話がかかってくる。一本は「立ち直り」の施設にいるらしい母親から、もう一本は、かつて苛めグループにはいたが、海岸で心を通わせ、唇を合わせた「ただ一人の友だち」と言えた男から。今は小さなレストランのシェフになっているという。

 売人シャロンは、車を走らせ故郷に帰る。もう一度、自分の生き方を見直すために──。

 

 小学生、高校生、成人と、三人の役者がシャロンを演じているが、どの役者も、これまでのハリウッドの黒人俳優が与えられたようなある意味ステレオタイプの黒人像を超えて、微妙な繊細さを表現していてすばらしい。また、彼の母親役に、イギリス人で、これまでは、『007』のエージェント職員や、『われらが背きし者』では、サエない大学教授役のユアン・マクレガーの、サエてる弁護士の妻など、知的美人の役柄が定着している、ナオミ・ハリスが、あえて、「黒人度」を強調し、「私のようなクズにならないで !」と主人公に泣いて頼む、ヤク中母を熱演している。

 

 


『誰のせいでもない』──フォークナーはお好き?(★★★★★) [映画レビュー]

『誰のせいでもない』(ヴィム・ヴェンダース監督、 2015年、原題『EVERY THING WILL BE FINE』)


 ひどく文学的な映画である。本作で一番感情移入できるのは、シャルロット・ゲンズブールである。彼女(役柄名ケイト)は、カナダ(ここが舞台の映画は、いつも閑散としてものさびしい。アメリカの田舎との違いは空間でわかる)、モントリオール郊外の山の中とも言えるような家にシングルマザーとして、依頼されたイラストなどを描いて生活している。


 ほんとうは、作家であるジェームズ・フランコが主役で、彼をめぐる、3人の女の話だが、この4人は、べつに愛憎にもつれるわけでもなく、ただ、「袖擦り合うも他生の縁」的よりも、さらに、淡く交わる。


 スランプ作家のフランコが雪道を車で走り、何かが突然ぶつかってきたので急ブレーキを踏む。車を停めて見に行くと、車の前に赤いプラスチックのソリに乗った5、6歳の男の子が呆然としている。男の子は、おそらくはショックで口が聞けない。見ると丘の上に家があるので、その家に送り届ける。その時、男の子の歩みが遅いので、肩車をしてやる。

母のシャルロットがドアから顔を出し、「おたくのお子さんで?」と、フランコが言うと、シャルロットは驚きの顔をし、あたりをきょろきょろ。もう一人いたのだ。

そう、弟の方が、事故で死んでいた。崖下に落ちたのだろうか? とにかく、その状態は見せず、警察がフランコを家に送っていくところしか、事故関係は見せない。当然フランコにはなんの罪もない。しかし、彼は苦しむ。


 二年後、シャルロットが突然、夜中にフランコに電話をかけて呼び出す。応じて、例の事故現場でもある、彼女の家に行く。シャルロットは、「いっしょにやってほしいことがあるの」と言ったあと、「フォークナーは好き?」と聞く。「好きでも嫌いでもない。自分の作品しか興味ない」と答えるフランコ。「そう言うと思ったわ」。それから、本のページを破り、暖炉に本ごと放り投げて燃やす。「私はフォークナーに夢中になっていて、子どもたちを家に入れずに、もっと遊んでらっしゃいと言ってしまった」。つまり、罪は、シャルロットにあったと告白。


 レイチェル・マクアダムスは、事故前からの恋人だが、子どもをほしがる彼女と、作家道に邁進したい(だが、スランプ)のフランコで、生き方食い違いで、結局、別れる。10年後。コンサート会場で会い、ほかの男と結婚し、子どもも2人できたマクアダムスに、言い訳じみたことを言い、往復ビンタをくらうフランコ。

結局、フランコにも編集者の恋人ができ、彼女の連れ子と同棲→結婚になり、文学賞も取り、名声を得る。

 あの事故のことを小説に書いて以来、がぜん進歩したのだ。一方、シャルロットは、事故を克服できず、子どもの学費のために家を売り、旅に出たと、成長した事故の生き残りの男子に知らされるフランコ。その男子も「作家志望」で、フランコにつきまとっていた。最初にシャルロットに呼ばれて家に入った時、フランコに肩車された少年の絵が目についた。もしかして、少年は、そんなことされたのは生まれて初めてで、とてもうれしかったのではないだろうか? 弟は死んでいるというのに。しかし、子どもなんてそんなものだ。


 複雑な物語であるが、ただ言えることは、「作家」という職業の胡散臭さ。そして、ほんとうは愛し合うべき男女が、ただ触れあっただけで、永久に出会うことなく人生の闇に消えてしまうことも、ある。ということ。いや、「その後」、もしかしたら、フランコは、シャルロットを探して、旅に出るかもしれない。そうしたら、ほんとうの作家になれるのにね、というオハナシと見た、私はね。


 フォークナーに我を忘れる女なんて、そうそういるものではない。

 

 

 


 


 


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『ラビング 愛という名前のふたり』──あたりまえな願いへの静かな戦い(★★★★★) [映画レビュー]

『ラビング 愛という名前のふたり』( ジェフ・ニコルズ監督、2016年、原題『LOVING』)


 


 なにも60年前のアメリカの、理不尽な人種政策を、ことさらながら描くこともあるまいと思う向きもあるかもしれない。しかし、これが、少なくとも30年前なら、もっとものものしく劇的に描かれていたかもしれないし、『ミシシッピー・バーニング』のような作品が、よりクールだと思ったかもしれない。


 しかし、いま、普通の感情を描くことが尊いし、また可能になってきたとも言える。


 ケン・ローチ監督の『私は、ダニエル・ブレイク』しかり。普通であることを望み、表現することは存外難しい。


 2012年に作られ、2014年に日本公開された、同監督の『MUD』は、まだカタルシス的なものを含んでいた。ミシシッピーの無人島に住み着いている得たいの知れない男(マシュー・マコノヒー)を中心に、彼と知り合う二人の親友同士の少年と、彼らを取り巻く人物たちが人生とは何かを垣間見せる、まさに『スタンド・バイ・ミー』ふたたび、であった。


 本作では、黒人と白人が自然に住み慣らしている地域ではあるが、現実とはそぐわない法律、異人種間の結婚を禁ずる法律があって、それがために、ごく普通の愛し合って結婚した(ワシトンDCで)二人が「犯罪者」として、突然逮捕されて困惑する。当然、全アメリカ的には味方の人権派弁護士たちがいて、最高裁では勝訴するのだが。映画は、これら弁護士たちの作戦中心の法廷ものではない。当然作戦はたてられるのだが──。


 映画は、ひたすら、二人の男女の、ごく普通な願い、いっしょにいたい、夫婦になって家族を作りたい、ちゃんと子育てできる環境のなかで暮らしたい、親しい人たちの近くで生活したい、そんなあたりまえのものを獲得するための、静かな戦いを描いている。


 なんで俳優になったのかわからない、いかつい風貌で、悪役の多いジョエル・エドガートンが、無骨だが心優しき男を描いて、リアルさを感じさせる。とくに、職業のレンガ職人の仕事の手馴れた感じが、見ていて爽やかである。相手役のルース・ネッガも、黒人女性からくる紋切り型イメージとは遠い、しぐさや眼差し、しゃべり方の、繊細な柔らかさが心地よい。


 この二人、白人のリチャードの父が、黒人のミルドレッドの父に使われていたという事実も見逃してはならない。かなり屈折した地域で、起こるべくして起こったできごとを、主人公の名字、ラビングに引っかけた題名であり、物語である。

 



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『わたしは、ダニエル・ブレイク』──ひとには名前がある(★★★★★) [映画レビュー]

『わたしは、ダニエル・ブレイク』(ケン・ローチ監督、 2016年、原題『I, DANIEL BLAKE』)


 ヘレン・ケラーは、「ものには名前がある」ということをサリバン先生から学んだ──。本作は、ひとには、(識別番号でなく)名前があるという、あたりまえでありながら、昨今見過ごされがちなことを訴えている。


 イギリスは階級社会と言われるが、社会制度も整っている。しかしそれを享受するには、それなりの手続き、ルールがある。そのルールからはみ出し、手続きをしないと、あるいは、する資格を失うと、貧者はホームレスへの坂道を転がり落ちる。売れている俳優や監督にとっては、どうでもいいような世界である。もっと派手なテーマを追った方がウケるし、目立つし、かっこもいいかもしれない。しかし、ローチ監督はあえて、こういう作品を撮る。そして、カンヌ映画祭が、グランプリである、「パルムドール」を与える。さすが、おフランスである。映画界も捨てたものではない。こういうスキマからこぼれてしまうような事柄、人々を描いてこその映画である。


 しかし、イギリス、階級社会とはいえ、庶民パワーもすごい。役人たちの、あまりに杓子定規な対応にキレたダニエル・ブレイクが、役所の壁にスプレーで落書きする、「私はダニエル・ブレイク、名前を持った人間だ!」。それに喝采する、通りすがりのオッサン、通りの向こうの、若い労働者たち。このパワーがイギリスなんだなーと思う。しかも、舞台はニューカッスルで、もろニューカッスルなまりで、実は私も英語があまり聞き取れなかった。


 二人の子持ちのシングルマザーは、ロンドンを追い出されて、この地方都市にやってきた。「フードバンク」(なるものがイギリスにはあって、配給券を持っていくと、野菜、缶詰、日用品、飲み物などをくれる)で、あまりに空腹で、フードを袋に入れてもらっている間に、缶詰を開けて口に突っ込んでしまうシングルマザー。この演技があまりにリアルだ。イギリスの俳優は、ほんと、ほんものを連れてきたのではないかという演技をする。『秘密と嘘』の過去に(黒人の)隠し子を持ったことで悩むオバサンもそうだった。イギリスの低所得者の団地のような住宅に、ほんとうに住んでいるオバサンを出したのだろうか?と思ったほどだが、ちゃんとパーティーで、ドレスアップしてきて女優とわかって安心した(笑)。


 このダニエル・ブレイクも、まだ60歳前のオッサンだが、全然かっこよくないところがじんと染みる。シングルマザーの子どもの1人の、おちつきがない男の子も、このオジサンがじっと木彫りを作るのを真似て、15分もじっと工作を作ることを学び、母親を感激させるシーンも、繊細な目配りがなければ撮れないところだ。

 

 



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『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』──「私に出会うため」の「破壊」(★★★★★) [映画レビュー]

『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う (ジャン=マルク・ヴァレ監督、2015年、原題『DEMOLITION』)


 


 この映画には、たとえ夫婦の過去の幸せな時間を表したシーンにさえ、セックスもなければキスもない。この映画の中では誰もキスしない。妻は死して、なぞなぞのようなポストイットの貼り紙を、冷蔵庫や車のサンバイザーなどに残し、妻のタンスの中には赤ん坊のエコー写真入りの封筒がある。しかし、主人公のデイヴィス(ジェイク・ギレンホール)がこれを見つけるのは、車なり冷蔵庫なりタンスなりを、「破壊する途中」である。妻が死んでも何も感じない苦しさに、デイヴィスは、夫婦の品物(家も含めて)を破壊し始める。体がもぞもぞしてと医者にかかると、なんとかいう蛾の幼虫に心臓が食われている写真を見せられる。その蛾は、両親の家で、父が庭の木について困ると言っていた蛾だ。


 


 なにもかもが「意外な展開」を見せる。妻が死んだ病院のM&Mのチョコの自販機で、チョコが引っかかって出ない。受付に苦情を言うと、「たまにそういうこともある。だが、自販機会社が管理しているので、そっちに文句を言ってくれ」と、アフリカ系の事務員に言われる。それで、デイヴィスは、自宅へ帰ってから、自販機会社へ、クレームの手紙を書く──。


 


「妻が死んだ病院で、空腹を感じたので、チョコの自販機にお金を入れたのに……」などと書き始め、待てよ、妻とのなれそめも必要だなと、その手紙は、小説のように長くなる。一方、自販機会社のクレーム係、カレン・モレノ(ナオミ・ワッツ)は、その手紙の書き手に興味を持って探し始める。二人が出会い、恋愛にはならず、ナオミは、ジェイクの自分捜しをそっと見守ることになる。一方、ジェイクは、ナオミの、「見かけは12歳だけど、実際は15歳」の息子のクリスと親しくなり、「自分はゲイなのか?」の悩みを相談される。息子は、上級生の「チンポを舐めたくなる」と言い、ジェイクは、「それじゃあゲイかもな」で、アドヴァイスを与える。「2、3年は、女の子をすきなフリをしていろ。それからマンハッタンかロスに移り住むんだな」まこと適切なアドヴァイスである(笑)。


 


 本作ほど感想の書きにくい映画はない。すべては確定されず、漂っているからである。もしかして、デイヴィスの妻は、「自殺」、あるいは、「無理心中」だったのかもしれない。なぜなら、運転中完全に横、つまりデイヴィスの方を向いて話していたからである。


 


 タンスから出てきた封筒から、妻が妊娠していたと知ったデイヴィスは、義父母に告げるが、義母は、「それはべつの男の子どもで、いっしょに堕ろしにいったと」と告白する。


 


 果たして、真実は? それは、どこにもなくて、ただ、主人公が「私に出会うため」の「破壊」をする。ジェイク・ギレンホールは、同じ年頃(36歳)の俳優やそれより上の俳優(ブラピ)などのように、ヒーローにはならない。いつでも透明で、まるで脇役のように主役を演じる。


 


 


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『アサシン クリード 』──こちらモノホンの「騎士団長殺し」(笑)(★★★★★) [映画レビュー]

『アサシン クリード』(ジャスティン・カーゼル監督、2016年、原作『ASSASSIN'S CREED』)


テンプル騎士団が関係する話というので興味を持った。騎士団とは、キリスト教徒の聖地(エルサレム)詣でを保護するためにできたという。とくに、フィレンツェのメディチ家は、金融業を営んでいて、借金の取り立てに騎士団にその保護を頼んでいたらしい。そういうわけで、騎士団には莫大なお金が流れていたらしい。それは代々受け継がれ、フリーメーソンのような、いまも伝わる秘密結社になっている──というのが、本作の物語の下地で、その団体の長を、シャーロット・ランプリングが演じている。


一方、その団体から資金をもらって、「世界から暴力を取り除く」研究をしているのが、マリオン・コチャールの博士で、その父親(ジェレミー・アイアンズ)の研究を受け継いでいると思われる。アイアンズは、もちろん、この結社の会員である。しかし、テンプル騎士団でもなんでも、騎士団というのは、カトリック系の自衛団で、暴力、陰謀など、いろいろと因縁バナシはある。本作では、この騎士団は、「エデンのりんご」に隠された、「人類支配の秘密」を得ようとしている。そこを、アイアンズの娘のソフィア博士は、「暴力をなくすため」と教えられていた──。


それには、テンプル騎士団に対抗する秘密組織、アサシン(暗殺者という意味だが)クリード(派)という組織があり、それらの子孫を見つけ、DNAの暗号を操作して、過去に遡らせ、教会によって異端審問で火あぶりにされようとしている、祖先のアサシンと「シンクロ」させ、アサシンを生き延びさせることだ。


ソフィアことコチャールはそういう研究をしている。異端審問がいかに怖ろしいことかは、頭に入れておく必要がある。


そして、抜きんでた身体能力を持つアサシンの子孫が、死刑囚であった、カラム・リンチこと、ファスベンダーである。子どもの頃、父に母を殺された体験を持っている。おそらく、与太者を数人殺してしまったのであろう。とにかく「身分」は、死刑囚で、死刑の執行が行われる(毒入り注射)──。リンチが死んだと思って目覚めるとソフィアの研究所で、同じようなアサシンの子孫たちが集められている。そこには、リンチの父親もいた。その父から、母を殺したのは、「過去を守るため」みたいなことを言われ、父を殺すのを断念する。


どこがどうおもしろいのかというと、SFチックに、脳が「過去へ旅する」というのはよくあるが、遺伝子というのは、暗号なので、物質でなくてもいいので、それは、「現在の」リンチの中にも存在していて、つまり、アサシンの子孫であったものは、「現在もアサシン」であるのだった。同様に、テンプル騎士団も、現在まで続いていて、それがランプリングの団体なのである。


「目覚めた」リンチは、祖先のアギラールと、「シンクロ」し、すぐれた身体能力を回復し、得意技の、イーグル・ダイブ(非常な高所から真っ逆さまに飛び降りる)をしてみせる。


リンチ=アギラールの脳から得られた情報によって、「エデンのりんご」が、コロンブスの墓にあることを知り、ついに、テンプル派が手にして、その集会。アイアンズがそれを手にして、会員たちの前で演説をする──。


そこに、リンチ登場。フード付きの修道士の衣装を身につけた、アサシンのかっこうをしている。「舞台袖」にいて、父親に裏切られたと感じている、ソフィア=コチャールと対面。ソフィアは、迷いながらも声を出して人は呼ばず、リンチのなすがままにさせる。すなわち、自分の父を暗殺させる。


ここで、アサシン・クリードは、目的を遂げる。

 

これがこの映画のすじである。今回、マイケル・ファスベンダー不感症の私が、ようやく彼が「世界一ハンサム」と言われるわけを納得。端整な顔立ちに、体が、筋肉もほどよく、バランスがとれて美しいのである。かてて加えて、すばらしい動き。コチャールも、オジンのブラピより男盛りのファスベンダーの方がお似合いだと思われる。しかし、この二人、40歳と41歳(コチャール)である。大したもんだ。ま、コチャールは、顔はともかく、スタイルはそれほどよくないが。


ゲーム原作ゆえか、複雑なストーリーで、まず歴史を知らなければ、ちんぷんかんぷんで、寝落ちもするだろう。導入部の、中世スペインの場面のヘビメタといい、最後の、民族音楽味つけのフュージョン風音楽といい、ひさびさ興奮した映画だった。いま、いちばん新しいアクション映画だ。


村上春樹も、このくらいは、書き込んでほしかったナ(笑)、「騎士団長殺し」というなら。


私が鑑賞した回は、夕方の六時すぎで、観客は多くはなかったが、私以外の10人ほどはすべて男性で、そこへ、カップル一組と、イスラム教徒の女性二人(スカーフをしているのでわかる)が入ってきた。キリスト教徒が悪という映画なので、やっぱりね〜であるか。

 


 


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『惑う After the Rain』──レトロに隠された劇的なるもの(★★★★★) [映画レビュー]

『惑う After the Rain』(林弘樹監督、 2016年)


タイトルの出方といい、昭和30年代頃のいにしえ映画の趣である。色合いといい、もったりしたセリフ回しといい、物語の場面設定といい、また、描かれる生活といい、これまでわれわれが切り捨ててきたもの、言ってみれば「古きよき日本」そのものである。それはそれで、ある意味「度肝を抜く」が、そういう映画で終わってしまうのかな〜と漫然と見ていると、時間は昭和27年から、突然昭和55年に変わり、昭和35年になったり、また27年になったりする。そうやって、「1章」「2章」と進む。


物語の基本は、昭和55年、どちらかといえば伝統的な家屋で、伝統的な暮らしをしている普通の銀行員の女性が、明日は結婚ということで、母と「実家での最後の時間」を過ごす。その時間さえ、あっけないほどさりげなく、どこか心さみしく感じられる──。


だが、やがて、この家族が、特別な家族であることがわかってくる。父はすでに他界しているが、この父は、もともと子だくさんの貧乏人の末っ子で、勉学心に溢れていたので、私塾の教師の養子になる。その私塾の教師の家が、由緒ある料亭であった。その養子はイギリスへ留学して学者となり、私塾を継ぐ。それが物語の一家の父親セイシロウで、料亭の仲居をしていたが、そこをクビになった、イトという女がセイシロウと出会い、「身の回りの世話」をするお手伝いさんとなる。この宮崎良子演じる、イトという女が、実は、物語の中心、真の主人公なのである。このイトは、空襲で家族を失った女であるが、日本の女性が身につけているべきものはすべて身につけ、しかも心根がよく、終始笑顔のすばらしい女性である。


この一家は、セイシロウとイトの夫婦に二人の女の子がいるが、女の子二人は、二人の実子ではなく、ある「雨の夜」、庭先に、捨てられていた子どもである。一人は赤ん坊で、姉の方も2歳ぐらい。イトはかわいそうに思って、自分の子どもとして育てるという。その時、まだ彼女の身分は、「お手伝いさん」である。しかし、セイシロウもその考えに賛成し、イトに結婚を申し込む。そうして、「家族」が生まれ、セイシロウもイトも、その子たちを心から愛し育てる。


セイシロウの夢は、自分の家から子どもたちを嫁に出すことだったが、発作を起こして死んでしまう。イトが意志を継ぎ、和裁の内職で必死になって子どもを育て、いよいよ嫁入りとなる。しかし、妹の方は、都会に出て、未婚の母となって戻ってくる。家も、由緒ある料亭の離れなので、区画整理の建て替えのため、本家の長男から出てくれと言われる。


それやこれやいろいろあったが、しっかりものの長女や塾の卒業生たちの協力で事態はよい方に運び、ついに長女の結婚式が、その料亭の座敷でとりおこなわれることになる。これさえ、古めかしい、「高砂や〜」の「祝言」形式である。花嫁は白無垢に次いで、お色直しをする。あでやかな赤い着物。しかし、そこに、司会役料亭長男(なんとなくまかれて、ちょっとだけ「いい人」になっている)が「もう一組をご紹介します」という。未婚の母の妹が、やはりあでやかな白系の着物で、子どもの父の男と登場。驚く招待客たち。姉妹のお披露目の日本舞踊が始まる。ここで、姉妹の子ども時代から、母イトが独自に鍛えていた踊りが生きるのである。


ここらあたり、がーーーっと劇的なるものが高まる。


宮崎良子のイトが最高である。料理、和裁、舞踊、作法……すべて備えている、真のしっかりした、しかしそれを表に出すことのない女が、「家族」の意味を組みかえ、「完成」させるのである。

 

 

 



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『ラ・ラ・ランド』──ポストモダンのミュージカル(★★★★★) [映画レビュー]

『ラ・ラ・ランド』( デイミアン・チャゼル監督、2016年、原題『LA LA LAND』)


 60年代のファッション、カラー、アイテムなどを材料にした(「映画の現実」の時間は、スマホ、プリウスなどがある、21世紀の現在)、まったく新しい切り口の「ミュージカル」で、さすが、ハリウッドの職業組合も、その点を評価した、今回のノミネートだと思うと、ハリウッドも捨てたものでない、そして、時代は完全に変わっていると思われる。


 本作に不満を持っている観客は、いにしえのミュージカルが頭から抜けないのだと思う。これは、のっけから、まったく新しい切り口であることが知らされる。ここで、理解できないと、それは、最後までひきずってしまうことになる。


 私はこれまでミュージカルはあまりすきでなかった。というのも、ストーリーはお飾りで、繊細な心理までは描かなかった。雨のなかでノーテンキに踊る男に、共感はできなかった(笑)。


 それが本作では、ジャズの神髄から、時間への考察などが、登場人物の男女の繊細な心理ものとして表現されている。


 それに、女優が女優を演じたり、ハリウッドそのもの題材にすることも難しいが、その難しさを大胆にクリアしている。


 俳優たちも、肉体を十分に駆使して、演技が本来、肉体運動に近いことを教えてくれる。


 それに、オマージュ、というより、さまざまな「引用」が洗練されている。とくに、フリージャズ志向のライアン・ゴスリングは、ビル・エヴァンスを思わせなくもない。


 夢とは叶えるもの。ジャズとは脱構築である。ということをあらためて認識させてくれる。


 


 


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