So-net無料ブログ作成
映画レビュー ブログトップ
前の10件 | -

『ボストン ストロング〜ダメな僕だから英雄になれた〜』──ジェイク、スター性をかなぐり捨てる (★★★★★) [映画レビュー]

『ボストン ストロング〜ダメな僕だから英雄になれた〜』(デヴィッド・ゴードン・グリーン監督、 2017年、原題『STRONGER』)

 

 歌舞伎には「裏狂言」というものがある。たとえば、「四谷怪談」は、「忠臣蔵」の「裏狂言」である。「四谷怪談」の主人公、田宮伊右衛門は、塩冶の浪人、赤穂藩の武士であった。本作は、ある意味、2016年の、同じボストンマラソン・テロを扱った、『パトリオット・デイ』の「裏狂言」と言えるかもしれない。密室でない、屋外での爆発による、まれなテロである。『パトリオット・デイ』では、FBI特別捜査官の、ケヴィン・ベーコンは、テロと断定するのに、慎重になっていた。テロと発表してしまえば、政府の対応はまったく違ってくる。映画は、この犯人を追及するまでを、ボストン警察の一巡査部長(マーク・ウォールバーグ)の目を通して描いていた。

 

 本作は、そのテロ事件にたまたま遭遇した被害者が主人公。両脚を失うというひどい被害に見舞われながら、意識がやっと戻ったとき友人との筆談で、「犯人を見た」と言い、「英雄」となっていくジェフリー・ボーマンを、ジェイク・ギレンホールが演じている。この「英雄」は、不撓不屈の努力で、義肢を使って、再び立って歩けるまでになる。そういうニュース記事や映画はよくあるが、実際は並や大抵の努力ではできない。地獄のような苦しみを克服するさまは、まさに「英雄」なのであるが、その際、劇的な高揚感を排除し、普通の男が、人々に勇気を与える人間になるまでをていねいに描いている。

 

 ジェイク・ギレンホールは、スター性をかなぐり捨て、どこにでもいるちょっと軽い男が、偶然の不幸に襲いかかられ、「英雄」へと変身していく姿を、深い身体性で再現している。俳優とは、自分以外の誰かを演じてみることに関心のある人間だが、そうか、ギレンホールは、こういう人間に「なって」みたかったのかと思った。それは、彼のストイックな生活を反映しているようで、ますますすきになった(笑)。

 恋人役の女優も、化粧っ気がまったくなく、美人でもなく、ブスでもなく、アクというものがないのに、気丈さと心の優しさが出ていて、大変好感が持てた。

 


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:映画

『君の名前で僕を呼んで 』(2回目鑑賞)──オリジナルと反復 [映画レビュー]

『君の名前で僕を呼んで』(ルカ・グァダニーノ監督、2017年、原題『CALL ME BY YOUR NAME』(2回目鑑賞)

 

前回観た劇場は画面が暗く、せっかく人工のライティングを導入せず、北イタリアの光と影を撮っているのに、不全感があったし、細部をじっくり確かめてみたい気持ちもあって、もう一度、べつの劇場で観た。

 

古代ギリシアの彫像というのは、それ以前のメソポタミアやエジプトの彫像と違って、王族や書記官などの、正面を向いたぼってりとした動きのない像と違って、ミロのヴィーナスに代表される、動きのある、八頭身の、人間的なものになっている。これは、制作当時から現代まで伝わったわけではなく、ヨーロッパにおける、「ルネッサンス」によって、「発見」された。そして、この「美の基準」こそが、近代まで連綿と伝わるヨーロッパ美術の美である。

 

本作の「教授」は、その、ギリシアから伝わる美術を研究している……ように見える。ギリシアから、ローマへと伝わり、ルネッサンスを通じて、その形がコピーされた──。本作の「湖」の底から発見されるのは、19世紀にある貴族が愛人に送った、ヴィーナスの「コピー」の銅像だった──。

 

「ミロのヴィーナス」オリジナルも、発見されたのは、19世紀である。

 

ここに、この映画の、オリジナルと変奏の、隠された主題がある。現に、主人公の少年エリオは、バッハの曲を、編曲している。しかし、その編曲は、「リスト風」などと、中間項を入れ、同時にリストをも「コピー」している。

 

当然、毎夏の習慣として、「教授」の父が受け入れた大学院生、アメリカ人のオリヴァーは、ギリシア的美の基準を満たした男である。車から降りたオリヴァーを、自室の窓から見たエリオは、一目で恋をする。それから、全編、エリオよりの視点でとらえられた「恋物語」で貫かれる。それは、男女を問わず、恋するもののすべての行動である。

 

本作は、ティモシー・シャラメという、フランス人の父と、ユダヤ系アメリカ人の母との間に、ニューヨークで生まれた、ある意味、現代哲学を肉化したような俳優と、アーミー・ハマーという、まさにギリシア彫刻そのままの肉体(ギリシア彫刻は、顔は個人の顔を持っていない)と、アラン・ドロンのような、まれにみる美貌、しかも、ドロンに知性を付け加えたような(笑)繊細な表情をも表現できる俳優が、1980年代の北イタリアの豊かな自然、樹木や湖や草原や古い建物のなかで、ふれあい、ふざけあい、からみあう。カメラは彼等の肉体と表情を様々な角度から捉え、しかも、ひとつのシーンが俗な物語へと変化する寸前に切り替えられ、次のシーンに移る。

 

まるで古代ギリシアの彫刻のように男性の美しさを強調したこの映画で、女性陣は旗色が悪い。とくに、エリオの、二人の、「フランス語を話す」女友だち、マルシアとキアラ。この二人の女性も、ギリシア彫刻を体現したようなオリヴァーの出現を当初から眺め、見守り、翻弄される。彼女たちにとっては、失恋の痛みを知る夏であるが、キアラは、オリヴァーと衆目のなかで熱いダンスを踊り、キスをし、まるで恋人同士のように振る舞われるが、それはオリヴァーの、軽いノリのひとつであった。一方マルシアは、エリオと、ほとんど恋人のつきあいをすることになるが、エリオがオリヴァーとの恋にのめり込んでいくに従って冷たくされる。そして、「ほんとうの恋人」ではないことを知る。しかし、彼女は、エリオがオリヴァーとの数日間の愛の旅行(理解のあるエリオの両親の粋なはからい)ののち、帰国する彼と本格的に別れて帰ってきた時、(耐えられず迎えに来てもらった)母親の車で、彼の住む町に帰ってきた時、母親が車を停め、カフェに入っていったのを待っている彼に近寄って来る。エリオは車から出て彼女にちゃんと向かい合う。マルシアは、「恋人同士」として振る舞われていた時、彼から詩集をプレゼントされたが、その詩集を読んで心に響いたことを伝える。そして、二人は、「永遠の(Pour la vie)」友だちの誓いの握手をする──。

 

映画は、そこでは終わらず、さらなる月日の経過を見せ、舞台となった地に、雪が降り積もる。クリスマスの時、それはユダヤのハヌカーとも重なるが、一家は、父親がユダヤ系とはいうものの、それほど、宗教的に重きを置いているわけではないが、「オリジナル」をも大切にしている。だから一家のお祝いは、カトリックであろう、イタリア人使用人もいるので、二つが重なったようなものになる。エリオの家では、ディナーのテーブルが整えられつつある。そこへ、アメリカのオリヴァーから電話がかかってくる。目的は、彼の婚約の知らせ。両親は適当に彼を祝福し、すぐにエリオとオリヴァーを「二人にする」。二人は、離ればなれの恋人同士の会話、「逢いたい」を伝え合い、初めて愛を交わした日に、オリヴァーが提案した、「自分の名前で相手」を呼び合い、愛を確かめる。そして……

映画はまだ終わらず(笑)、暖炉の前に、家族には背を向けて座るエリオの顔を映し出す。彼の背後では、テーブルセッティングが進行中なのが、ぼんやりと映し出されている──。カトラリーの金属音、ざわざわという家族たちの声、そして一度は、「エリオ」と呼ばれる。しかしエリオは反応せず、暖炉の前に座り続ける。暖炉の炎がエリオの顔に映り、パチパチと薪の燃える音がする。カメラは、長い長い間、エリオの表情をとらえる。実際は22歳のティモシー・シャラメという俳優はそれに耐え、17歳の少年の、「悲しみよこんにちは(Bonjour Tristesse)」を演じ続ける。映画はやっと、フェイド・アウトしていく。闇。エンドクレジット。オープニングと同種の「背景」。すなわち、古代ギリシア美術の彫像の写真を置いただけのもの。それに、落書きのようにクレヨンの筆跡で、「Call me by your name」。それは、17歳の少年のひと夏の「グラフィティ」に似合っている。映画はこのタイトルバックで、二人の男性の恋に、現代的な軽さを与えている。

 

 

 


nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:映画

『女は二度決断する 』──インフラがたがたのドイツを反映した映画(★★) [映画レビュー]

 

『女は二度決断する』(ファティ・アキン監督、 2017年、原題『AUS DEM NICHTS/IN THE FADE』)

 

 経済優先しすぎで、橋や道路などのインフラががたがたというウワサのドイツと経済破綻したギリシアが、相互乗り入れしたような映画だ。

 爆破犯のネオナチは、カップル二人だけ。それに協力していた、いかにもギリシア顔の、やはり、ネオナチのギリシア人のオッサン。「悪者」は、この三人だけ(笑)。主人公の夫が経営するオフィスの前に「自転車爆弾」(笑)が仕掛けられ、夫と息子は「ひどい死に方」をする。いかにひどいかを、裁判中に延々と語られ、ダイアン・クルーガーのヒロインは、ただでさえ哀しいのに、恐ろしいまでの悲劇へと、自己を追い込んでいく。まあ、夫と息子は即死なのだけどね。

 なんで、狙われたの? それは彼がトルコ系で、そのなかでも少数民族のクルド人だったから? クルド人はユダヤ人みたいに国家を持たず、中近東を中心に、世界中に散らばっている。トルコに一番たくさんいて、1000万人ほど。ドイツにも、50万人はいるらしい。それなのに、なぜ彼女の夫が? 彼女の夫は、薬の売人をやっていた過去があり、それで服役もしていた。「今は真面目に働いているんです!」事務所を開いて、翻訳とかそういうことをやっているらしい。

 「豪邸に住んでいるね」と刑事に言われ、クルーガーは、「不便なところだから、土地代は安いんです」てなことを言う。このヒロイン、なぜか、タトゥー趣味で、体中にタトゥーを入れている。クスリの経験もあり、現に、耐えられなくなった時、友人の弁護士から、クスリを分けてもらっている。なんで弁護士が? 「顧客のプレゼント。捨てるつもりだったから、タダであげるよ」

 被害者の家宅捜索(も、家宅捜索されるのか? ドイツでは?)の時、ヤクが発見されるが、精神的に辛かったので使用と、「微量」なので、法的には見逃される。

 テロリストのカップルは意外に簡単に捕まって、裁判が始まるが、犯人の男の父親までが、倉庫に爆弾の材料があったと証言しているのに、その倉庫の鍵が、第三者でも使えた状況にあったことで、「疑わしきは罰せず」的無罪となる。

 そして、主人公独自の復讐劇が始まる──。原題は、『AUS DEM NICHTS』日本語に訳せば、「無へ」ということか。だから、本作は、推理劇でもなければ、社会劇でもなく、一人の女の心の軌跡ということになる。思わせぶりっこに、三部仕立てのテーマで区切られている。

 まあ、これは、事実まんまなのだろうと思われる。現にドイツに、こういう女がおり、こういう事件があったのだろう。背景もあまり直してないと思われる。だから不可解さが残る。どこかを変え、もっと納得のいくドラマにすることもできただろう。しかし、女が追っていく、犯人カップルの隠れ家(浜辺に停めたキャンピングカー)があるギリシアの、寒々とした風景はどうだ? カップルの掩護人、いかつい顔のオッサン経営のホテルもやすっぽ〜。これはこのまま、お国の内情が出てしまった映画と見た。貧すれば鈍す。人員も、予算も足りず。ただひとり、CHANELカヴァーガール(アンチエージング系の化粧品)の、ダイアン・クルーガーのみが、凄絶な演技をする。

 このヒトを初めて見たのは、ブラピ主演の『トロイ』。絶世の美女、ヘレナに扮したが、これが絶世の美女?と思った印象は今も消えず。やー、CHANELのカヴァーガールに選ばれるくらいだから、美人だとは思うんですが。

 


nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:映画

『君の名前で僕を呼んで 』──愛とは教養である(★★★★★) [映画レビュー]

『君の名前で僕を呼んで』(ルカ・グァダニーノ監督、2017年、原題『CALL ME BY YOUR NAME』)

 

 愛とは教養である。教養がないと、「モーリス」映画を期待して外されたと悪態をついたり、ストーリーや演出の起伏がないなどと、自らのバカを露呈することになる(笑)。

 主人公の17歳の少年は、実は(当時)22歳の、ショーシャ・ローナン男版のような、ニューヨーク生まれのアメリカ人俳優が扮している。巧まずして、こういう「深さ」は出せないだろう。北イタリアの自然に富んだ別荘地が舞台ながら、制作側は、自然に、任すわけにはいかない。具体的に所在地を設定せず、「こんなことがありました」的な展開である。

 古代ローマ文明研究者の大学教授の屋敷に、「例年のように」大学院生が、おそらくは、教授を補佐しつつ、自らの論文を書くためにやってくる。それは毎年のことなので、教授の17歳の息子やガールフレンドたちは、「今年はどんなやつかな?」的な興味しかない。それが……

 車から降りた彼は、身長190センチ超、だけど、ごつさは全然なくて、遠目でもハンサムとわかる。しかも、教授がしかけた、母の出すアプリコット・ジュースを飲みながらの、「第一の難問」。アプリコットの語源をも、難なく自説を披露して、教授のお試しを、突破する。少年は少年で、バッハなど、クラシックを編曲する趣味(?)を持っている。ピアノも、オリジナルにすばらしく弾ける。母とは、フランス語で話している。ということは、母親はフランス人か? ガールフレンドともフランス語で話していて、一家は英語で話している。お手伝いさんや下男(まー、差別語ですかね(笑))などとは、イタリア語で話す。

 すると、この一家はユダヤ系フランス人なのかもしれない。だいたい、教授の名字のパールマンは、ユダヤ系の名字だ。やってきた、アメリカ人の青年も、ユダヤ系である。

 頭脳明晰の、オリヴァー(アーミー・ハマー)だからこそ、「最高の愛の交換」を思いつく。「きみの名前でぼくを呼んで。ぼくの名前できみを呼ぶから」。これこそ、時間にも社会的条件にも打ち勝つことのできる最高の愛の証である。よしや、この二人に「ハッピーエンド」があるとして、それは、途中でパールマン家にやってくる、年老いたゲイ夫婦のお客のようになるのが関の山。かくも、時間は残酷である。美しいまま、美しい時間を凍結するなら……「きみの名前でぼくを呼んで」である。だから、(「オリヴァーの帰国」で終わってもいいはずだった)物語は延々と続き(このあたりが、フツーの映画しか知らないか観客は冗長に感じてくる)、アメリカへ帰ったオリヴァーから突然電話がかかってくる。それは、不自然でもないように、ユダヤ特有の、「ハヌカ祭」の日に設定されている。オリヴァーはそこで、自分の婚約を告げる。けれど同時に、少年への愛も伝える。お互いは、自分の名前で相手を呼び合う。これこそ、時間にも社会の規制にも打ち勝ち、いつでも二人の時間を取り戻すことができる術(すべ)なのだ。

  こうした「映像の文学」に、通俗的なドラマチックな展開(バカが、「母親とできるとか」と言っていたが(笑)。そういう意味では、ブ男、ダスティン・ホフマンの『卒業』は、通俗である(笑))を求めても意味がない。しかも、美として表現されるためには、演じる男優たちの洗練された演技術、かつ、美しい肉体が必要である。とくに、少年を魅了する、「おとなな」男の美は、今役者としてノリにノッている、アーマー・ハマーあってのものだろう。彼は、今、ブロードウェイの舞台に立っている。ぜひ、生(なま)アーミーを見るために、ニューヨークへ行きたいものである(笑)。

 


nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:映画

『さよなら、僕のマンハッタン』──ニューヨークが呼んでいる!(★★★★★) [映画レビュー]

『さよなら、僕のマンハッタン』( マーク・ウェブ監督、2017年、原題『THE ONLY LIVING BOY IN NEW YORK』)

 

 マンハッタンの街で、文学作品からの引用が溢れ、スノッブたちの会話が乱れ、男女の思惑が入り乱れ……とくれば、ウディ・アレンの独壇場だろうが、本作は、まさにその通りなのだが、どこか激しい清々しさを感じさせる。それは、ニューヨークの街の隅々、どんな小さなものさえ美しく見せるカメラワークと、大学を出たばかりで、実家を出て住み始めたトーマスの、純真さ、彼を演じるカラム・ターナーの、生硬さが滲む初々しい容姿と演技も大いに影響しているだろう。

 製作総指揮の、ジェフ・ブリッジスが、キーパーソンの覆面作家を演じ、物語を不思議な魅力で彩っていく──。

 ニューヨークだから、すべてがさまになる。ニューヨークだから、「そういう物語」も信じられる。今さらサイモンとガーファンクルでもないだろうが、その曲が原題(「The Only Living Boy In New York」)であり、覆面作家が書いている作品もまさに同タイトルなのである。

 あり得ないような物語が、きっちりハマった演技派たちによってリアルさを帯びていく。トーマスの父親のピアース・ブロスナン、母親のシンシア・ニクソン、引っ越して来た謎の隣人のジェフ・ブリッジス、父の愛人の、ケイト・ベッキンセール。それぞれの俳優たちは、以前はまったく違う映画でスターであったが、今はひたすら、初な青年を盛りたてる。

 父は出版社を経営し、恵まれた環境にあった作家志望の青年だが、コネを拒否して自立の道を探る──。このあたり、日本とは大違いである(笑)。だから、文学が生きている。エズラ・パウンドもイエイツも、引用されても重みがある。

 あー、ニューヨークが呼んでいる!



nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:映画

『トレイン・ミッション 』──ダメなジジイが一番スゴイ(笑)(★★★★★) [映画レビュー]

『トレイン・ミッション』(ジャウマ・コレット=セラ監督、2018年、原題『THE COMMUTER』)

 

 のっけから、ダメなジジイ丸出しのリーアム・ニーソン。実際は65歳ながら、60歳になって警察からトラバーユした保険会社に勤めて10年たったところで、突然リストラされる役どころ。妻になんて言おうかと意気消沈のまま、ニューヨークのマンハッタンあたりから、郊外の家へと、いつもの通勤列車で帰っていく(しっかし、マンハッタンで働いている人々がみんなマンハッタンに住んでいるわけではなく、やっぱり、かなり時間をかけて郊外へと帰っていくんだなーって、この映画を見て思った)。勝手知ったるいつもの列車なので、混んでいても、空席を見つけられる。そこでやっと座ると、見知らぬ女が現れて、「ゲーム」をしかけてくる。「プリンという人物を見つけて、鞄を奪って」だったかな〜? 報酬は列車内にあるわ、みたいな。トイレに行って捜すと、床近くの空調器のフェンスの内側に、袋入りの札束があった。家のローンに、息子の大学資金、貯金はまったくない。で、喉から手が出るほどの金なので、もらってしまう。それで、女がしかけた「ゲーム」に巻き込まれていく──。

 

 キレのいいカメラワークが、のっけから、★三つかな〜と思って見ていると、やがて、第一のどんでん返しで、★は四つになり、第二、第三と、後半たたみかけていくように盛り上がっていくアクションとミステリーに、★は五つまで昇った。

 

 結局、「プリン」とは、ある権力がらみの殺人事件の目撃者であり、「プリン」はその「証拠」を鞄に入れていた。心強い味方と思っていたNYPD時代の後輩が、実はこの事件に絡んでいて、ワルと思われていた上司が、ちゃんとした人間だった。この役を、『ピアノレッスン』のサム・ニールが演じていて、ほかに、なつかしの、エリザベス・マッガバン(私は昔、マッガバンに似ていると言われたが、老けた彼女もまた私に似ているような気がした(笑))が、リーアムの妻役で登場する。

 

 リーアム・ニーソン、角度によっては、『13日の金曜日』のジェイソンに見えないこともない(爆)が、まー、実直なジジイ感がよく出ている。しかし、映画は、このジジイにトム・クルーズ(んー、いい勝負のジジイに入りつつあるが(笑))なみの活躍をさせる。まさに、「ミッション・インポッシブル」通勤列車版である。だから、邦題も、「ミッション」とついているのだ(笑)。どうせこんなジジイに大したことはできまいと、高をくくっていると、それがどんどんエスカレートして、あれよあれよというまに、インポッシブルなことをこなしている。そして、まー、最後のかっこいいオチ。胸がすくとはこのことだ。まさに、これからのジジイ映画に希望を持たせる終わり方である。音楽もいい。小僧はデカいロボット相手に闘ってろってか?(爆)



nice!(2)  コメント(0) 

『レッド・スパロー 』──ヤンキー娘が英語で演じる性差別丸出しロシア女スパイ映画(★) [映画レビュー]

『レッド・スパロー 』(フランシス・ローレンス監督、2018年、原題『RED SPARROW』)

 

 スパイ映画が三度のメシよりすきな私であるが、本作は予告篇から食指が動かなかった。なんとなく、重そう、そして、「二重スパイ」は、あの人に決まってる(笑)。あけてビックリ、あまりにも紋切り型かつお手軽な(一応)スパイもの。ツッコミどころが、満載のスキだらけのスパイもの(爆)。だいたい、なんで、ヤンキー娘が「英語で」ロシアのバレリーナを演じなきゃいけないわけ? 『世界にひとつのプレイブック』で、弱冠21歳で、アカデミー主演女優賞をはじめ、数々の賞を総なめし、つづく『アメリカン・サイコ』でも評価されたジェニファー・ローレンスは、16歳だかで出た『ウィンターボーン』でアカデミー主演賞にノミネートされたが、幼すぎて受賞にいたらず、「おとなになってからの」『プレイブック』で晴れて受賞となったが、彼女の演技史的には、『ウィンターボーン』が最高で、あとはその余力にすぎない。その『ウィンターボーン』の柳の下のドジョウを狙った、『ハンガーゲーム』シリーズで、ずっとコンビを組んでいるオーストリアの監督(同じローレンス姓なので、親戚かなにか(笑)?)が、次は何かないかと考えたのが本作であろうと思われる。美貌のバレリーナ、いいねー。しかもロシアのスパイ、いいねー。であるが、もともと丸顔で、いつまでも童顔のジェニファーなので、はっきりいって濃い化粧が似合わず、それほど美貌に見えなかった。ペチャぱいだし(爆)。背は高いかしらないが、ただ大柄なだけで、それほど色気もないタイプ。イメージチェンジを意図したのか? とにかく、このスパイものは、いかんわあ。第一、ロシア人がずーっと英語というのは、確かに昔はそういう雑な映画があったが、いまでは許されない。どっちがCIAかわからない(笑)。

 

 第二に、お色気作戦であるが、いま、こういう手法を謳歌するような映画は、性差別丸出し映画として、アクティヴィストのジェニファーなら拒否すべきだった。しかし、そのあたりが、甘いというか、やはり学校はちゃんと出ておくべきではなかったのか。同じバレリーナでも、何十年も訓練しているナタリー・ポートマンが、さらに特訓して挑んだ『ブラックスワン』とは大違い。だてにハーバードを出てるわけではないのかも。さらに、やはりバレリーナを目指していたシャーリーズ・セロンの体の方が数倍美しいと思うが、彼女が去年出たスパイもの『アトミック・ブロンド』では、色はいっさい売らない。すべて、格闘技で大男の敵をばっさばっさやっつけていく。スパイものではないが、最近の『トゥームレーダー/ファーストミッション』のアリシア・ヴィキャンデルも、鍛え抜いた体はすがすがしく、ランニングいっちょうで、アクションばんばん。本作、いかに原作が、33年間CIAにいた人間が書いたか知らないが、ロシアのスパイ養成学校の科目に、「フェラチオ(←Yahoo!映画では、この言葉が「使用できない文字」でした(爆)。しかたないので、伏せ字にしました。どんなPTAが運営してるんだ(爆)?)のおけいこ」まであったのは、わろたー(爆)。

 

 第三に、伏線がほとんどなしで、すべてセリフで説明のひどい脚本。上層部ぶった雰囲気のジェレミー・アイアンズがいきなりジェニファーの前に登場し(数回顔を合わせてはいたが)、「私がモグラ(二重スパイダ)だ。国家に不満があった」てなことを告白する。え? 意外! とは、全然思わなかった(笑)。もうこの配役は、これしかないだろー。ロシア情報部の幹部の告白くらい、ロシア語でやってほしかった〜。

 

 第四に、やはり、スパイ映画につきものの、拷問(笑)が、なま易しい。『ソルト』(この二重スパイの方がかなり意表を突いた)のアンジェリーナ・ジョリーなど、北朝鮮で捕まって、顔が本人と見分けがつかないほど拷問されたシーンがある。化粧でちょいちょい、目のしたのアザを直してる程度では(このシーンが数回出てくるが)、甘い甘い(笑)。

 

 で、なんつーか、「絶賛」が多いが、このテードの映画で誤魔化されてしまう観客のレベルの低下を本気で憂える。 おそらく、ジェニファー・ローレンスは、こののち、映画俳優的ステイタスは確実に落ちていくものと思われる。だいたい、このバレリーナ役、ほんとうにバレエに惚れ込んでいたのが、それが絶たれて失意、という状況だが、それほどまでにバレエがすきなようには、全然見えなかったのも、この映画の大きな欠点のひとつだ。

 

 出演俳優としては、ごつい容貌とアクの強いジョエル・エガートンが、スリムになって、中村獅童(なにか襲名しましたかね?)よりは、許せる容貌になってCIAのあまりリアルでない局員で、お決まりのように、ヒロインと恋に落ちる役を地味に演じている。

 メアリー・ルイーズ・パーカーが、アメリカ側のお役人で情報を売るアル中女を、ひとりだけ楽しんで演じていたのが特筆に値する(笑)。


 

 


nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:映画

『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』──帝国主義者が魅力的では困る(笑)(★★★) [映画レビュー]

 

『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男 』(ジョー・ライト監督、2017年、原題『DARKEST HOUR』)

 

 かつて日本には「バカヤロー」って言って国会を解散した首相がいたが、なんかそんなヒトを思い出したナ。「貧乏人は麦を食え」って言った首相もいた。「天の声はヘンな声」と言った首相もいた。チャーチルも、逆説がお得意の名物首相。しかし、なんで、わざわざ、特殊メイクをしてまで、オールドマンが演じなければならないわけ? ほかにチャーチルに似たような演技派俳優はいくらもいそうなイギリスである。確かにオールドマンは魅力的な男である。評価の高い観客は、彼が演じてると思うだけでもうカンドーなのだろう。そう、私もオールドマンのファンだから、確かにへんなジジイにしては魅力的だった。しかし、それが困るのだ。チャーチルは、「インド人は嫌い」と言って、当時イギリスの植民地だったインド、ベンガル地区への食糧供給を拒否し続け、300万人を餓死させたと言われている。ダンケルクで自国の兵士何十万かは救ったそうだが。映画でも、嫌われた理由を、首相になる前に、作戦の失敗によって何百万の若者を無駄に死に追いやったと糾弾されている。

 

 「どんな犠牲を払おうとも国を救うことが重要だ」という、映画でもたびたび出てきたチャーチルの考えだが、アジア大西洋戦争時に、昭和天皇と東条英機以下の軍部もそう言っていた。少しの違いは、イギリスは侵略される側だったが、日本は侵略する側だった。戦況は悪いのに、よいように見せかけたというのも、似たような手法である。だいたい、庶民の考えを知ろうと、たまたま乗った地下鉄の一両に、あんなに意見ぴったりの人々が乗っているだろうか?

 

 監督のジョー・ライトは、これまで、歴史的好編を製作してきたが、今回の作品は、脚本にもダレた点があり、寝落ちしてしまった(笑)。音楽、とくに、演説で会場の意見を転換させたチャーチルが、「紙吹雪」のなか颯爽と(?)去っていくエンディングの音楽は劇的でなかなかよかった。



nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:映画

『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書 』──志の高さとエンタメ性をみごとに両立(★★★★★) [映画レビュー]

『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』(スティーヴン・スピルバーグ監督、2017年、原題『THE POST』

 

 大統領制のアメリカは、議院内閣制の日本と違って、行政府の長が、多数党から選出されるということはない。大統領は別個に選ばれる。しかも、大統領には、立法権も宣戦布告権も、法案提出権もない。三権分立が文字通り機能している国である。議会が力が持っていて、すべては議会の動きにあり、それを知るためには、業界紙を読むことが必須で、それらの業界紙は、ホワイトハウス付近の議員会館やレストランなどに置いてあるフリーペーパーである。

 

 本編の題名ともなっている、The Post(ワシントン・ポストの通称)は、業界紙ではないが、当然、地方(この場合は、ワシントンDC)の政治などを中心に扱っている有力紙である(アメリカには、日本のような全国紙はなくて、すべて地方紙である。ポストの社主役のメリル・ストリープは、Local Paperとという言葉を何度も口にする)。その新聞が、ペンタゴンの極秘文書を(重要部分を)全文掲載する──。その一部は、ニューヨークの有力紙、Times(ニューヨークタイムズ)によってスッパ抜かれていた。しかし、それは、一部にすぎなかった。「ポスト」の野心的な編集主幹であるトム・ハンクスは、「全文」入手を狙って動き出す。それは当然インサイダーである。これは告発せねばと考えた内部者によってメディアの手に渡される。映画は、そこを詳細に描いている。さすがスピルバーグである。クサい人間ドラマにはせず、極秘文書の量、メディアに渡るまで、渡ってから、そして、メディアの商品としてのディレンマ(時は、ポストがニューヨーク証券取引所へ上場されるところである)を、経営者の役員たちと、メリルのやりとりで描き出す。メリルは、祖父、夫から引き継いだ、「気弱な女性経営者」で、経験豊かな役員の古株連に支えられている。そこを、「ペンタゴン・ペーパー(国防総省極秘文書)」の掲載決断を境に、気骨のある新聞人へと変貌していくまでが描き出される。

 

 のちに、ウォーターゲート事件(民主党が事務所として借りていた、ウォーターゲート・ビル6階への盗聴で、ニクソン大統領再選委員会の仕業であったことが判明、やがては、弾劾裁判への動きに抗しきれなくなったニクソンは、アメリカ大統領史上初めて、任期途中で辞任に追い込まれる。リーアム・ニーソン主演の『シークレットマン』はこの事情を描いている)へ道を開く発端ともなる、そこも、ちゃんとエンディングで示し(ビルの地階の入り口にガムテープが貼られ、警備員が剥がすとまた張り直されていた。不審者の侵入を疑った警備員が警察に通報する)その発覚発端部分を、ちゃんと映像化し、芸の細かさを見せ、最後の最後まで、志の高さで突っ走る。

 

 「ペンタゴン・ペーパー」の内容とは、つまり、ベトナム戦争がどの程度勝ち目があるかを調査した記録で、これは、戦地に何度も足を運んだ(この部分から映画は始まる)マクナマラ国防長官が調べさせ記録させた文書である。それによれば、まったく勝ち目がないのにもかかわらず、無駄な命を大量に失わせたいたという事実である。こうした記録も、きとんと残されていればこその「すっぱ抜き」であって、日本のように「改竄」もしくは、初めからそういう視点はないというのとでは、民主主義の本質がまったく違ってくる。ちなみに、日本もアジア太平洋戦争において、勝ち目がまったくないにも関わらず戦争を続行したことは、ビックス『昭和天皇』に描かれている。それも、昭和天皇その人の意志であったとする。こちらは、「極秘文書」は存在しないので、地味に資料を集めて検証した。

 

 本編はそうした、普通のエンターテインメント映画では、いや、真面目な映画でも描けない微妙な部分を描き、かつ、最高のエンターテインメントに仕立てている。かなり地味な過程なので、メリル・ストリープ、トム・ハンクスという、アメリカでも最高の、しかもクリーンなイメージの俳優が必要だった。観客は、そこのところをどの程度理解できるかが試される。ただ、アメリカでは上記のような事情は、知識人なら常識だと思うので、エンターテインメント性を十分楽しめると思うが、日本の場合、ただのごちゃごちゃにしか見えないかもしれない(笑)。





nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:映画

『トゥームレイダー ファースト・ミッション』──ララ 3.0(★★★★★) [映画レビュー]

『トゥームレイダー ファースト・ミッション』(ローアル・ユートハウグ監督、 2017年、原題『TOMB RAIDER』)

 

 

 17年前のアンジェリーナ・ジョリーは、三つ編み、巨乳を強調し、ゲームのララそっくりに作ってあった。本作も、ストーリー展開はほぼ同じ。冒頭はララの訓練シーンで、アンジェリーナは、確か、お屋敷の訓練場のようなところで、ハイテクの敵を相手に訓練していたような気がする。2001年は、21世紀最初の年で、妙に「ハイテク」を意識していた。それが「ララ 1.0」だとすると、その続編も作られたようだが、あまり評判にはならなかった。おそらく、時代がこのゲームの設定を超えてしまったのではないか? 私もゲームCDを持っていたが、まったくやらずにブックオフに売った。

 時間は激しく過ぎ去り、あの、アリシア・ヴィキャンデルが、「ララ」をやると知って、これは見逃してはならないと思った。こういう映画はスターが出てないと、という、ジジイなレビューもあったが、アカデミー助演女優賞を取っているヴィキャンデルって、スターでしょ? 彼女あっての「ララ・クラフト」。しかも、「2.0」を飛び越えて、「3.0」。リブートっていうのは、そういうことなのでは? アンジェリーナの名前はどこにも出てこない。比較にすらならない。時代が完全に変わってしまったのだ。

 ヴィキャンデルは、小柄で、肉感的なアンジェリーナと対照的な風貌をしている。可憐、さっぱり、クール。その肉体を鍛え抜いて、ほぼスタントなしでアクションをこなしたという。こちらのララは、富豪の家とは縁を切って、ロンドンで、シュミの格闘技(笑)のレッスンをしながら、バイク便の仕事をし、お貧乏な暮らし。完全に自立した女性である。

 どこかのトゥーム(=墓)へ向かうことになるのがお約束だが、その墓がぬあんと、日本の卑弥呼の墓だった。いったいどこにあるの? 志賀島?(うち(福岡)の近くじゃん(爆)。まあ、とにかく、途中香港に立ち寄って、日本付近の謎の島へ向かう。そこは魔界で──。

 その島には、死んだはずのオトッツァンがいて、友人の裏切られて、身を潜めていた。その友人は、卑弥呼の墓を暴き、世界を征服するパワーを得ようと、墓掘り作業を進めている……。このあたり、シェークスピアの『あらし』を思わせる。現に、ララもバイト仲間の前で、シェークスピアからの引用をごく自然に口にする。父が残した秘密の地図、古代の伝説、そしてパワーを手に入れて、世界征服を企む、「トリニティ」なる集団。ばかばかしいと怒らないでください、オジーチャン(笑)。これは、もともとゲームなんですから。でも、「伝説ももとは事実がもとになっているんだ」と、ララの父親が、幼いララに言う。そう、ゲームも、文学がもとになっていることが、ままあるんです(『ミスト』とか)。

 大の男を相手に、丸腰で闘うヴィキャンデルがすごい。これまでにあったような、大柄なヒロインではなく、華奢で強いのが新しい。母の形見の、緑の石のペンダントを質入れしたララだったが、「卑弥呼の魔の島」から帰って、(父の財産を継いだので)お金を持って、そのペンダントを受けだしにいくが、逆に拳銃を買ってしまう。それも最新式の強力銃。「2個いただくわ」。

 バットマンと似たような家庭環境にあるララであるが、もしなにかと親身になって彼の世話を焼く執事が悪とつながっていたら? さいわい、バットマンの執事は、善人が保証されている。しかし、ララ・クロフトは、執事にあたるような、父親の会社の重役が、どうやら最強の敵のようである。その「敵」は、クリスティン・スコット・トーマスが演じる。以下、(たぶん)続く(笑)。エンディングの音楽と絵画が、ヌケていて、やっぱ「3.0」である。




nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感
前の10件 | - 映画レビュー ブログトップ
メッセージを送る