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【詩】「どん底」 [詩]

「どん底」


ものごころつけば、父は肉体労働者、母は内職のちに正式な工場労働者、で、家は借家。


そんな環境で、しだいに、自分の家ほどの貧乏人はないと思っていたが、高校にいって、ひょんなことから、演劇部に入ってしまい、そこで、演劇というものにハマってしまい、そこで、学校と市の図書館の戯曲を読みふけった、


市の図書館は高校のすぐ近くにあり、充実していて、ベケット、イヨネスコ、ピランデルロ、などをそこで知った。知って驚いた。

「不条理」なるものの世界が存在することを。というか、そうした世界の見方があるということに。


学校の図書館には、ゴーリキー『どん底』があり、

ロシアの文学は、いつも、貧乏にはさらなる下があることを示してくれて、目を見張った。


ドストエフスキーの貧しさは、まだ「高嶺の花」(笑)で、

ゴーリキーの『どん底』こそ、そのときの自分の現実だった、


まさに「どん底」の人々が、安下宿に投宿して、いろいろごたくを並べている。これ以上落ちようのない人々が。


しかし、いま、二十一世紀の日本で、「底辺女子」といって、売春産業を強いられる女子たちは、そのゴーリキーよりさらに「どん底」なのだった。

まさに、貧しさに、底はない、


そして、それらは、ロシア文学のようには、文学にならない、

非人間的なものは、いかなる文豪も、描くことがでない、


日本の今のエッセイや小説などに描かれているではないかと、反論があるかもしれないが、それらは、


 たとえ「どん底」を描いても、豊かさと、どこか人間の体温の暖かみをもった、文学ではない、


ただの「レポート」だ。

 



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『アサシン クリード 』──こちらモノホンの「騎士団長殺し」(笑)(★★★★★) [映画レビュー]

『アサシン クリード』(ジャスティン・カーゼル監督、2016年、原作『ASSASSIN'S CREED』)


テンプル騎士団が関係する話というので興味を持った。騎士団とは、キリスト教徒の聖地(エルサレム)詣でを保護するためにできたという。とくに、フィレンツェのメディチ家は、金融業を営んでいて、借金の取り立てに騎士団にその保護を頼んでいたらしい。そういうわけで、騎士団には莫大なお金が流れていたらしい。それは代々受け継がれ、フリーメーソンのような、いまも伝わる秘密結社になっている──というのが、本作の物語の下地で、その団体の長を、シャーロット・ランプリングが演じている。


一方、その団体から資金をもらって、「世界から暴力を取り除く」研究をしているのが、マリオン・コチャールの博士で、その父親(ジェレミー・アイアンズ)の研究を受け継いでいると思われる。アイアンズは、もちろん、この結社の会員である。しかし、テンプル騎士団でもなんでも、騎士団というのは、カトリック系の自衛団で、暴力、陰謀など、いろいろと因縁バナシはある。本作では、この騎士団は、「エデンのりんご」に隠された、「人類支配の秘密」を得ようとしている。そこを、アイアンズの娘のソフィア博士は、「暴力をなくすため」と教えられていた──。


それには、テンプル騎士団に対抗する秘密組織、アサシン(暗殺者という意味だが)クリード(派)という組織があり、それらの子孫を見つけ、DNAの暗号を操作して、過去に遡らせ、教会によって異端審問で火あぶりにされようとしている、祖先のアサシンと「シンクロ」させ、アサシンを生き延びさせることだ。


ソフィアことコチャールはそういう研究をしている。異端審問がいかに怖ろしいことかは、頭に入れておく必要がある。


そして、抜きんでた身体能力を持つアサシンの子孫が、死刑囚であった、カラム・リンチこと、ファスベンダーである。子どもの頃、父に母を殺された体験を持っている。おそらく、与太者を数人殺してしまったのであろう。とにかく「身分」は、死刑囚で、死刑の執行が行われる(毒入り注射)──。リンチが死んだと思って目覚めるとソフィアの研究所で、同じようなアサシンの子孫たちが集められている。そこには、リンチの父親もいた。その父から、母を殺したのは、「過去を守るため」みたいなことを言われ、父を殺すのを断念する。


どこがどうおもしろいのかというと、SFチックに、脳が「過去へ旅する」というのはよくあるが、遺伝子というのは、暗号なので、物質でなくてもいいので、それは、「現在の」リンチの中にも存在していて、つまり、アサシンの子孫であったものは、「現在もアサシン」であるのだった。同様に、テンプル騎士団も、現在まで続いていて、それがランプリングの団体なのである。


「目覚めた」リンチは、祖先のアギラールと、「シンクロ」し、すぐれた身体能力を回復し、得意技の、イーグル・ダイブ(非常な高所から真っ逆さまに飛び降りる)をしてみせる。


リンチ=アギラールの脳から得られた情報によって、「エデンのりんご」が、コロンブスの墓にあることを知り、ついに、テンプル派が手にして、その集会。アイアンズがそれを手にして、会員たちの前で演説をする──。


そこに、リンチ登場。フード付きの修道士の衣装を身につけた、アサシンのかっこうをしている。「舞台袖」にいて、父親に裏切られたと感じている、ソフィア=コチャールと対面。ソフィアは、迷いながらも声を出して人は呼ばず、リンチのなすがままにさせる。すなわち、自分の父を暗殺させる。


ここで、アサシン・クリードは、目的を遂げる。

 

これがこの映画のすじである。今回、マイケル・ファスベンダー不感症の私が、ようやく彼が「世界一ハンサム」と言われるわけを納得。端整な顔立ちに、体が、筋肉もほどよく、バランスがとれて美しいのである。かてて加えて、すばらしい動き。コチャールも、オジンのブラピより男盛りのファスベンダーの方がお似合いだと思われる。しかし、この二人、40歳と41歳(コチャール)である。大したもんだ。ま、コチャールは、顔はともかく、スタイルはそれほどよくないが。


ゲーム原作ゆえか、複雑なストーリーで、まず歴史を知らなければ、ちんぷんかんぷんで、寝落ちもするだろう。導入部の、中世スペインの場面のヘビメタといい、最後の、民族音楽味つけのフュージョン風音楽といい、ひさびさ興奮した映画だった。いま、いちばん新しいアクション映画だ。


村上春樹も、このくらいは、書き込んでほしかったナ(笑)、「騎士団長殺し」というなら。


私が鑑賞した回は、夕方の六時すぎで、観客は多くはなかったが、私以外の10人ほどはすべて男性で、そこへ、カップル一組と、イスラム教徒の女性二人(スカーフをしているのでわかる)が入ってきた。キリスト教徒が悪という映画なので、やっぱりね〜であるか。

 


 


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『惑う After the Rain』──レトロに隠された劇的なるもの(★★★★★) [映画レビュー]

『惑う After the Rain』(林弘樹監督、 2016年)


タイトルの出方といい、昭和30年代頃のいにしえ映画の趣である。色合いといい、もったりしたセリフ回しといい、物語の場面設定といい、また、描かれる生活といい、これまでわれわれが切り捨ててきたもの、言ってみれば「古きよき日本」そのものである。それはそれで、ある意味「度肝を抜く」が、そういう映画で終わってしまうのかな〜と漫然と見ていると、時間は昭和27年から、突然昭和55年に変わり、昭和35年になったり、また27年になったりする。そうやって、「1章」「2章」と進む。


物語の基本は、昭和55年、どちらかといえば伝統的な家屋で、伝統的な暮らしをしている普通の銀行員の女性が、明日は結婚ということで、母と「実家での最後の時間」を過ごす。その時間さえ、あっけないほどさりげなく、どこか心さみしく感じられる──。


だが、やがて、この家族が、特別な家族であることがわかってくる。父はすでに他界しているが、この父は、もともと子だくさんの貧乏人の末っ子で、勉学心に溢れていたので、私塾の教師の養子になる。その私塾の教師の家が、由緒ある料亭であった。その養子はイギリスへ留学して学者となり、私塾を継ぐ。それが物語の一家の父親セイシロウで、料亭の仲居をしていたが、そこをクビになった、イトという女がセイシロウと出会い、「身の回りの世話」をするお手伝いさんとなる。この宮崎良子演じる、イトという女が、実は、物語の中心、真の主人公なのである。このイトは、空襲で家族を失った女であるが、日本の女性が身につけているべきものはすべて身につけ、しかも心根がよく、終始笑顔のすばらしい女性である。


この一家は、セイシロウとイトの夫婦に二人の女の子がいるが、女の子二人は、二人の実子ではなく、ある「雨の夜」、庭先に、捨てられていた子どもである。一人は赤ん坊で、姉の方も2歳ぐらい。イトはかわいそうに思って、自分の子どもとして育てるという。その時、まだ彼女の身分は、「お手伝いさん」である。しかし、セイシロウもその考えに賛成し、イトに結婚を申し込む。そうして、「家族」が生まれ、セイシロウもイトも、その子たちを心から愛し育てる。


セイシロウの夢は、自分の家から子どもたちを嫁に出すことだったが、発作を起こして死んでしまう。イトが意志を継ぎ、和裁の内職で必死になって子どもを育て、いよいよ嫁入りとなる。しかし、妹の方は、都会に出て、未婚の母となって戻ってくる。家も、由緒ある料亭の離れなので、区画整理の建て替えのため、本家の長男から出てくれと言われる。


それやこれやいろいろあったが、しっかりものの長女や塾の卒業生たちの協力で事態はよい方に運び、ついに長女の結婚式が、その料亭の座敷でとりおこなわれることになる。これさえ、古めかしい、「高砂や〜」の「祝言」形式である。花嫁は白無垢に次いで、お色直しをする。あでやかな赤い着物。しかし、そこに、司会役料亭長男(なんとなくまかれて、ちょっとだけ「いい人」になっている)が「もう一組をご紹介します」という。未婚の母の妹が、やはりあでやかな白系の着物で、子どもの父の男と登場。驚く招待客たち。姉妹のお披露目の日本舞踊が始まる。ここで、姉妹の子ども時代から、母イトが独自に鍛えていた踊りが生きるのである。


ここらあたり、がーーーっと劇的なるものが高まる。


宮崎良子のイトが最高である。料理、和裁、舞踊、作法……すべて備えている、真のしっかりした、しかしそれを表に出すことのない女が、「家族」の意味を組みかえ、「完成」させるのである。

 

 

 



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【詩】「右側に気をつけろ」 [詩]

「右側に気をつけろ」


(Soigne ta droite)


夜明けまでに詩を書いて(もちろんフランス語で)パリのネルヴァルの住居に届ければ、彼の自死を免れさせることができる──。


というお告げ。


はたして誰からの?


などという考えはいっさい浮かばず、こちら、東洋の白痴は、エールフランスは夜中のフライトの命名募集に応募し、みごと当選!

羽田からパリへ向かう。あ、そのフライトの名前?

「サンテグジュパリ」


紙と鉛筆を手にしているけど、まだ詩はかけてなくて、


すでにパリの街路を彷徨中。


えー? ネルヴァルの住居って……? たしか……うねうねくねった路地の中の路地。迷路のような奥。


「すみません、このへんにネルヴァルさんの住居知りません?」

「だれ、その人」

「作家……っていうか」

「作家? ここにはたくさんいるけどね」

「どこかで聞いたその言い方……」


港のヨーコ、ヨコハマ、ヨコスカあノノみたいな。


「頭の中になにか入ったっていってたなー。何ヶ月も引き籠もったまま姿を見せなかった。ジェラールとかなんとか。ウブなネンネじゃあるまいし、収容所のアンネじゃあるまいし、おかしーぜ、あのオッサン」

「そう、そのオッサンです」

「あんた日本人だろ?」

「そうですが、どうしておわかりに?」

「日本語しゃべってんじゃん」

「あ、そうか。じゃあ、あなたも日本人?」

「見りゃわかるだろ? おれは、ウクライナ人よ」

「そういうややこしいこと、言わないでください。詩が違う方向へ言ってしまうから」


日本語を話すウクライナ人について、ベンヤミンは書いている(ウソ)。

物語作家について書いている(ホント)。


「闇が光に打ち勝とうとしている。しかし光は夜の背後から襲ってくるだろう」

そう朗読する、フランス人の、いやスイス人の白痴は、やけにいいコートを着ている。


「それで、詩は書けたかね」

「こんな感じでどうですか?」

 

La nuit ou Baudelaire tombe

La fenetre, la vitrine, les fleurs brillent

Les choses simples commencent a raconter leur propre histoire


(ボードレールが降る夜

窓やショーウインドーや花々が輝く

単純な物たちが彼らの物語を語り出す)


「ま、そんなもんだろ」

スイス白痴は、先に立って歩き、

とある建物、古い修道院のように見えたが、その入り口に立ち、

コートのポケットから古風な鍵を取り出した──。


けれど、そこにわれわれが見出したものは──


「しまった、遅すぎた」

「遅すぎたってねー、あんた……」

 

おそらく梁から下がっていたであろう「綱」は切れて、

クェッションマークに似たかたちで、「それ」の背後から

「這いだして」いた。

 

「それ」は黒々とひからび、しなびたカボチャのように、

いっさいの物語を拒絶していた。


だがしかし、

 

光が背後から襲うだろう。


 

 


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祝!アカデミー賞! [映画分析]

『ラ・ラ・ランド』が監督賞、主演女優賞を獲得!


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『ラ・ラ・ランド』──ポストモダンのミュージカル(★★★★★) [映画レビュー]

『ラ・ラ・ランド』( デイミアン・チャゼル監督、2016年、原題『LA LA LAND』)


 60年代のファッション、カラー、アイテムなどを材料にした(「映画の現実」の時間は、スマホ、プリウスなどがある、21世紀の現在)、まったく新しい切り口の「ミュージカル」で、さすが、ハリウッドの職業組合も、その点を評価した、今回のノミネートだと思うと、ハリウッドも捨てたものでない、そして、時代は完全に変わっていると思われる。


 本作に不満を持っている観客は、いにしえのミュージカルが頭から抜けないのだと思う。これは、のっけから、まったく新しい切り口であることが知らされる。ここで、理解できないと、それは、最後までひきずってしまうことになる。


 私はこれまでミュージカルはあまりすきでなかった。というのも、ストーリーはお飾りで、繊細な心理までは描かなかった。雨のなかでノーテンキに踊る男に、共感はできなかった(笑)。


 それが本作では、ジャズの神髄から、時間への考察などが、登場人物の男女の繊細な心理ものとして表現されている。


 それに、女優が女優を演じたり、ハリウッドそのもの題材にすることも難しいが、その難しさを大胆にクリアしている。


 俳優たちも、肉体を十分に駆使して、演技が本来、肉体運動に近いことを教えてくれる。


 それに、オマージュ、というより、さまざまな「引用」が洗練されている。とくに、フリージャズ志向のライアン・ゴスリングは、ビル・エヴァンスを思わせなくもない。


 夢とは叶えるもの。ジャズとは脱構築である。ということをあらためて認識させてくれる。


 


 


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村上春樹著『騎士団長殺し 第1部顕れるイデア編』『第2部 遷ろうメタファー編』──読まずにすませたい読者のために(笑)(★★) [小説]

村上春樹著『騎士団長殺し 第1部顕れるイデア編』『第2部 遷ろうメタファー編』──読まずにすませたい読者のために(笑)(★★)

 

『騎士団長殺し 第1部顕れるイデア編』『第2部 遷ろうメタファー編』(村上春樹著、2017年、新潮社刊)

 

「今回も」、この思わせぶりっこの題名と、目次のせいで、買ってしまいました(爆)。というか、も〜べつの楽しみがあるんですね。いかに「偉大でないか」を探るために。まず、本作、「このミステリーがすごい!」みたいなエンタメ系の賞に応募したら、1次落ちかと思われます。だいたい、「広義の」ミステリーにすらなっていません。まず、この「騎士団長」というのは、十字軍関係かな〜と思ったけど、「歴史」は、この人のレパートリーにはなくて、これは、モーツァルトのオペラ『ドン・ジョンバンニ』からの借用です。そして、ある老画家が、こういう題名の絵を描き、それが、たまたま、主人公が借りたアトリエの屋根裏にあるんです。そして、この騎士団長(身長六〇センチほど)が絵の中から登場し、「自分はイデアが形を取ったものである」なんてぬかす。

 副題の「顕れるイデア編」というのは、なんのことはない、そういうことです。

 

 第二部、「遷ろうメタファー編」は、そうお察しのとおり、絵の中から出てきた、「顔なが」と呼ばれる人物(身長七〇センチ)が、自分は、「ただのメタファーが形を取ったものである」と主張。そんだけのこと。

 

 あと、女がいろいろ出てきて、毎度のように、すぐにセックスしたりします。まさか、13歳の少女とはやらないだろうな、と、祈りのような気持ちをもって読み進むと、これは、ご安心ください、手は出してません(爆)。でも精神的にはやってると思う。でも、「ロリータ」書くほどの才も度胸もなし(笑)。

 

 この小説は、おそらく、「第三部」「第四部」ノノと、いくらでも続いていく可能性はすでにはらんでいます。というか、こういう書き方だと、どんどん続けていけるんです。

 

 ドストエフスキーもカフカも、生存ぎりぎりの人間を描いています。しかし、村上春樹の登場人物は、今回だと、肖像画家ですが、いとも簡単に仕事はやってきて(キャンバスの大きさを1メートルラ1.5メートルとか、数字で言うかな? F50とかのサイズが自然に出てくるんじゃないかな? 画家なら。っていうリアリティの問題は、「ないものねだり」なので、棚上げ)、あまり生活に困っているふうでもなく、だから、つまらん妄想に肝を冷やしたり、できるんです(笑)。車の種類と登場人物の服装は、やけに詳しく書かれている。ヘンリー・ジェームズは、人物の名前、職業、など、すべて省いても、リアルで怖い小説を書いているのであるが。

 

 ま〜、渡辺淳一が書いたラノベというかノノ。★はひとつでもいいんですが、(Amazonで)二つがなかったので、二つにしました(笑)。

 

 件の老画家のオーストリア留学時代の恋人がナチに殺されたとか、弟が南京で、中国人を「殺させられて」心に傷を受け自殺(村上春樹のキーワードのひとつですが)したり、いろいろ、あたかも「歴史に抵触したかのような」エピソードは出てきますが、それは、あくまで、「ファッション」ね〜(笑)。

 

 毎度、こんな作品しか書けないのは、本人、まったく勉強していなくて、人の小説も読んでなくて、しかも、外部と接触を断っている、まつり上げられて特別の場所にいるからではないかと思われます(合掌)。いくら億万長者でも、ビル・ゲイツなどは、こんなことはまったくないのですが。

 

 一般読者のシュミにはなんとも言えないけど、こんな小説を絶賛「しなければならない」評論家諸氏には、心底ご同情申し上げます。

 

 


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【詩】「失われた時を求めて」 [詩]

「失われた時を求めて」


(A la recherche du temps perdu)


 ベケットは二回、ナボコフは、おそらくそれより多く、通読したと思われる、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』は、やはり読み通した人は少なく、よって、いいかげんなことを言っても、誰も「それはちがう」とは言えない。


ナボコフによれば、英訳で四千ページ、約百五十万語、登場人物は二百人以上。扱われている時代は、一八四〇年から一九一五年。執筆にかけられた時間は、一九〇六年年から一九一二年。その後、一九二二年に死ぬまで改筆と訂正をくりかえした。


時間の長さは、「遅筆」をイメージさせるが、私の計算によると、ものすごい速さと分量で、日々の執筆をこなし、それを死ぬまで続けた。


失われたのは、「話者」の時間ではなく、書き手自身の時間である。


ナボコフ曰く、


 「全巻これ宝探しであって、宝物は時間であり、隠し場所は過去である」(『ヨーロッパ文学講義』)


私はこの作品を、犬の散歩時に、フランスの俳優、アンドレ・ドュサルディエの朗読のCDを、iPodに入れて聴いている。


いまだ「スワン家」のあたりをさまよっている。


ドュサルディエの朗読は淀みなく、(おそらくは編集の働きであろうが)一語としてひっかからない。


私の野心は、通読どころか、この作品すべてを暗記することである。


稗田阿礼が、帝紀と旧辞を暗記したように。あるいは、


ボルヘスの、「記憶の人・フネス」のように。あるいは、


ホメロスのように。

 

たいていの文章は、散歩道の闇のなかに消え去ってしまうのだが、なかに、ひっかかってくる箇所がある。いつも「はじめ」から聞き直すのだが、ひっかかる場所はいつもいっしょだ。それは、


ドュサルディエの静かな声が半ば興奮したように高まり、「話者」の祖父を演じる場面だ、


「マチルド! おまえの夫がウィスキーを待ってるんだぞ! なにしてるんだ!」


 そして祖母は悲しそうに……


 と、「話者」は語る。


 優雅な貴族社会のマッチョ性の露出。


「話者」は祖母の味方だ。


そして、作者は、そのような女性の地位を受け入れることはせず、


解放した。


愛とは、主従である、


ということを、よく知っていた。


だから、女は愛さなかった。


わたくしは、プルーストの「阿礼」となって、この物語を全文暗記し、二十一世紀に再構成したいと思う。

 

 


 


 


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【詩】「存在の耐えられない軽さ」 [詩]

「存在の耐えれない軽さ」


(L'Insoutenable legerete de l'etre)


 

 そして徳川幕府は、死臭を管理する方法についてお隣の中国から学んだ。以後代々、死臭が管理された。それはおもに社寺によって管理され、死ぬことも生きることも個人の自由にはならなかった。自由とは、そう、幻の国の秘薬のようなものだった。ここに、本居宣長は生まれ、契沖、賀茂真淵に師事した。すなわち、源氏や古事記や論語の読み方について。そしてしだいに、「存在」について目覚めたのだった。


二十一世紀のお人は、ソメイヨシノを愛するか。育てるのに簡単なプラスチックのような花だ。私が愛した花は、ヤマザクラ、濃い紫の花だ。育てるには、ちょいと工夫がいってな。手を患わせるのだ。若く美しい女のようにな。


宣長さん、自分の墓について、こと細かに指示したとか。おおやけの墓と、わたくしの墓と。そしてプライベートの墓は、海の見える場所で、そばに山桜を植えてくれと……。そは……。

 


そぞろ歩きは軟派でも〜♪ こころにゃ、硬派のちがかおる〜♪ 千賀かおるノノそのヒト誰ですか?


 


そして二十四時間、あのマチあとに〜♪


思いつめてた気持ちをもろくターンさせたのですか?


よぞらってさー、五木ひろしでしょー? いや、「最高密度の青空」なのかな〜?


さあ……それはちょっと……だいたい密度ってなんです?


「粗密の度合い」でしょう、「単位堆積あたりの量」とか。


それだと、この「最高密度」は、なにが? 最高密度なのか?という、問題が残るわな。


なにがって、つまり、すべての色は太陽光なんよ、太陽の光のうち、波長の短いのが、空中の粒子にぶつかって反射する、それが青色、太陽が傾き、長い波長の赤い光が見える、これが夕焼け。


すると、夜空はノノ太陽の光は見えないけど、宇宙には太陽より明るい星がゴマンとあって、それらの光が届いてもいるんです。


それらは「背景放射」と呼ばれ、最も有名なものは、マイクロ波宇宙背景放射で、高音のプラズマが宇宙膨張に伴って冷えて中性化した時代、


宇宙が始まって約四十万年後の世界を直接見ているんです。


だから、「夜空は最高密度の青色」というのは、徳川幕府の陰謀ということになりますね。民にそのように信じさせれば操ることができるとノノおそらく林羅山あたりが吹聴したのではないですか。


だからおれは、花狂いを演じ、和歌をゴマンと詠んだ。おれがほんとうに考えていることを悟られぬために。


宇宙は、はじまらなかった──。


夜空の光こそ、自由のあかし。


自由とは、宇宙の麻薬。いまだそれを合法化した国家はない。


言葉という酒に酔ったふりして、おれは死臭に染まったこの時代の死臭を拭き取り、宇宙さまにお返しするつもりさ。


はじまりはなく、おわりもない。


ないものもない。


夜空は、最高機密のご開帳だ(笑)。

 

 


 


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『愚行録』──見ることの快楽(★★★★★) [映画レビュー]

『愚行録』(石川慶監督、2016年)


 さすがポランスキーが出た「ポーランド国立映画大学」で学んだことを思わせる、日本的スタイルからは完全に脱している作風である。そういう作品のなかでは、妻夫木聡がファスベンダーに見えてくる。事実、妻夫木は欧米俳優なみの集中力(本作では、ひさびさに見る、精神科医役の平田満をはじめ、ほとんどの俳優が高い集中力を発揮している。つまり表情が揺るがない)を見せている。妹役の満島ひかりも、同様の集中力を発揮、こちらも、キャリー・マリガンなみの演技力を見せる。事実、セックス中毒の兄をファスベンダーは演じ、その厄介者の妹を、マリガンが演じた。しかし、兄妹といえど、欧米ではどこまでも個人で、悩みも個人の範囲にとどまる。ところが、本作は、問題が、日本特有の陰湿さをはらんで、学校カースト、就活、飲み会、幼児虐待、などが、リアルな会話によって炙り出されていく。


 作中人物が「日本は格差社会じゃなくて階級社会だ」と言うが、欧米の階級社会はこんなものではないだろう。歴史にがんじがらめにされたそれは、もっと根源的で絶望的なものだろう。


 一部のレビュアーが物語のできに不満を訴えていたが、これは、映画の疵ではなく、原作が悪いのだろう。ミステリーとしてはありきたりな常套である。一家惨殺事件の犯人は、その一家に虐げられた人間──。いかに虐げられたか。吉田修一原作の『怒り』も、似たような物語であるが、ただ、あまり犯人の側に立っていない。事件を起こしたのは、ある人物の瞬時の「怒り」であったと主張している。本作は、「愚行」だったのだ。しかも「録」。そういう愚行を集めた記録? これは誰の視点だろう? 当然、妻夫木の視点だと思われる。そういう自分をどこか客観視しているような醒めた感覚が、「週刊誌記者」である妻夫木を貫いている。私ははじめて、この役者がよいと思った。


 暗い作品だが、ハイスピードカメラでとらえられた、なにげないバスの乗客たちのスローモーションの表情といい、老女に席を譲るように、ほかの乗客から叱られた妻夫木が、いやいや立ち上がってからバスの床に倒れ、実は脚が不自由だったと見せつけ、叱った男にばつの悪さを味わわせ、バスを降りてからも、しばらく不自由な歩行を続け、叱った男の気まずい表情をガラス越しにもう一度見せる。そうかこの主人公は脚が悪いのかと思った瞬間、正常な歩行に戻るシーンは、『ユージュアルサスペクツ』のケヴィン・スペーシーを思わせるが、そんなのっけから、見ることの快感に引きずり込まれ、いつまでも見ていたいと思わせる作品である。

 

 



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